NPB入りへのラストシーズンに挑戦。B-リングスのイケメンキャプテンに迫る【九州アジアリーグ】
大分・佐伯中央病院スタジアムでの開幕戦。フィールドでひときわ目立った選手がいた。大分B-リングスのセカンド、新井勝也だ。小柄ながらその動きは俊敏で、そのフィールディングは他の選手から一歩も二歩も抜きんでていた。
今シーズンで独立リーグ4年目。昨年まで四国アイランドリーグplusの愛媛マンダリンパイレーツでプレーし、九州に活躍の場を移したが、生まれは千葉だという。小学校に入ると同時にグラブとバットを手にした少年の憧れは、当時日本人最初の野手としてメジャーリーグに挑戦したイチロー選手だった。国内のプロ野球では、のちにイチローと同じくメジャーリーグに進むヤクルトの青木宣親選手が目標だったという。日本野球史上に残る外野手を目標とした彼だったが、なぜかポジションは内野だった。
「あの頃は、守備には興味がなくて。バッティングだけを見ていたんですね。」
シニアリーグで頭角を現した新井に高校から声がかかった。進んだ先の千葉商業高校では、強豪ひしめく中、県大会ベスト16までしか進めず、甲子園は夢のまま終わったが、大学からも声がかかり、地元千葉の清和大に進んだ。この頃から、新井の中で、それまで漠然とした思いに過ぎなかったプロ(NPB)への夢がかたちになって現れてくる。スポーツ法学を学びながら野球に打ち込んだ4年間を過ごしたが、ドラフトへの肝心かなめの最終学年で肩を壊してしまう。医者の見立てでは、そのまま治るのを待てば、普通の生活には支障はなくなるだろうとのこと。ただし、野球はもうあきらめねばならない。
大学4年での大けが。おまけにそれまでにスカウトの注目を浴びたわけでもない。「潮時」というのが、大方の見方だったが、新井の頭にはその選択肢はなかった。手術に踏み切った新井にある企業が手を差し伸べてくれた。野球優先という条件で飲食店に勤務。会社がスポンサーをしているクラブチーム、「新波(しんば)」でリハビリをしながら野球を続けることになった。ここから独立リーグを目指し、NPBへの扉をこじ開けようと考えたのだ。
「野球優先」とは言え、あくまで本職は飲食店のスタッフ。入社後早速、研修を受け、簡単な料理や仕込み、ホール作業を任されることになった。業務中は立ちっぱなし、怒涛のように押し寄せる注文に対処して、一息つく頃には体はヘトヘトになっていた。そんな中でのリハビリはやはり思うようには進まなかった。医者からは1年と言われた完治までの期間だったが、「故障以前」に戻るまでには2年を要した。
「ボールを握るまでに3ヶ月。そこから自分の中で、故障以前並みに強くボールを投げられるレベルにはなかなか達しませんでした。本当のところを言えば、トライアウト時点でも7割くらいの感覚でした。」
2017年秋、新井は四国アイランドリーグplusのトライアウトを受験する。大卒2年目、24歳。残された時間があまりないのはわかっていた。肩の完治を待っていると、もう1年待たねばならなくなる。ある意味「強行出場」だったが、その守備力はリーグ関係者の目に留まることになり、新井は、マンダリンパイレーツに入団することになった。
独立リーガーとしての第一歩を踏み出すころには、肩は完治していたが、すぐにレギュラーポジション確保というわけにはいかなかった。NPBへのステップアップの場のはずの独立リーグで、人生初の控え経験をすることになるとは新井は思わなかった。焦りの中、悶々とするルーキーシーズン、公式戦の半分ほどの出場で.216の打率しか残せなかった。
「中学くらいから独立リーグの存在は知っていて、かなり高いレベルの場所と思っていたんですが、実際入ってみると、そうでもないんだなと思いました。でも、現実には、その中でもレギュラーを取れない自分がいて、1年目はすごく悔しかったです。」
それでも、肩が完治し、持ち前のフィールディングを取り戻した新井は2年目にはセカンドのポジションを奪取。打撃も.253ながら、リーグ11位につけた。
しかし、3年目の昨季。課題の打撃は向上することなく、.231に終わると、シーズン後には、厳しい宣告が待っていた。「プロへの登竜門」と自らを位置付ける独立リーグにあって、NPBのスカウトの目が向きにくくなる三十路が見えてきた「ベテラン」は、育成の対象外となる。戦力としてよほどの数字が期待できない限りは、若い選手に席を譲ることになる。
「表面上は任意引退ということにしていただいていますが、実際はクビです。期待以上の結果を残せなかったので、それは自分でも納得しています。それにマンダリンパイレーツに3年もいて、正直、これ以上は上手くなれないと思いましたし…。そんな時にB-リングスのトライアウトの情報を得たんです。」
27歳。野球から足を洗うにはちょうどいい年齢にも思えるが、それは頭になかったと言う。トライアウトには当然のごとく合格。シーズン前には、それまでの経験が買われてか、キャプテンに任じられた。発足したばかりの球団とあって設備や環境は決して恵まれたものではない。それでも新井は「今までで最高」だと言う。
「おかげさまで、監督、コーチ陣にも恵まれていますし、一番は自分の時間がしっかり取れていますので。」
若い選手が多いこともあり、「ベテラン」の新井をおとな扱いしてくれているということだろうか。そういう環境の中、新井はひとつの決断をした。「今年がラストチャンス」だと。
「もう年齢のこともありますし、これ以上独立リーグにはいられないなと決めました。自分の中のルールですね。この環境でダメなら、もうあきらめようと。」
実際のところ、新興球団B-リングスの環境は他球団と比べてハード面で充実しているわけではない。3月から9月まで支給される報酬は月10万円。ここからシェアハウスの家賃とクラブハウスでの三度の食事代、光熱費、それに税金を引かれると、実際の手取りはその半分ほどだ。毎日野球漬けだから十分ではないかと他人は思うだろうが、プロアスリートとしてコンディションを整えるためには、サプリメントも必要になってくるし、道具代もかかってくる。野手ならば、バットなど折ってしまうと、たちまちのうちに「赤字」に陥ってしまう。九州アジアリーグでは、選手にシーズン中のアルバイトを認めているが、リーグ当局も球団も決して奨励しているわけではない。選手当人にとっても、NPBへの扉をこじ開けるのに、兼業などなかなかできるものではない。
そこで新井は、「ラストチャンス」にかけるべく、今シーズンの活動資金をクラウドファンディングで募ることにした。目標額は50万円。これだけあれば、球団からの報酬と合わせ、「ラストシーズン」に専念できると言う。
セールスポイントは、やはり守備だ。それでも独立リーグというワンステージ上で野球を始めてからスランプにも陥ったと言う。マンダリンパイレーツでの1年目。初めて控え経験をする中、得意だったフィールディングで挫折を感じたのだ。悶々と2年目のシーズンを始めた中、彼に手を差し伸べたのは同い年の兼任コーチ、白根尚貴(元ソフトバンク、DeNA)だった。NPBでもプレー経験のあるコーチは、悩める同級生に自らのグラブを貸し与えた。日本野球のトップレベルを経験した男の使ったそのグラブは、その材質以上に、使用した者のいい意味での「くせ」がついていた。新井はそのグラブを使うことにより、捕球のカンを取り戻した。
「白根コーチのグローブはすごく手に収まりやすくて、打球が自然と入ってくる感じだったんです。それから捕球率が格段に上がり、エラーをしなくなったんです。」
すっかり自分の手になじんだそのグラブを新井は手放すことはなかった。幸い、恩人は「同級生」だった。
「これもらうわ。」
大学時代、どこでも守った内野だが、独立リーグ入りして以来セカンド一本だ。自分でも一番しっくりくると言う。そんなセカンドの魅力を彼はこう語る。
「内野の中で一番動きますし、頭を使うポジションなので。細かい動きとか、体を反転させてゲッツーとか、そういう複雑な動きがすごく魅力だと思います。」
今週の九州アジアリーグは、今日11日から四国から高知ファイティングドッグスを招いて火曜は熊本、水曜は大分で2連戦。週末はソフトバンク三軍と火の国サラマンダーズの2連戦が熊本・藤崎台球場で行われる。大分・別大興産スタジアムでの12日の試合では、新井の華麗なフィールディングが見物となるに違いない。