【光る君へ】藤原道長が官職を辞退したいと一条天皇に直訴した背景
今回の大河ドラマ「光る君へ」では、藤原道長が一条天皇に面会し、官職を辞退したいと直訴した。むろん、一条天皇は道長の申し出を拒絶した。ドラマでは、この辺りの背景が十分に描かれていなかったので、改めて考えてみることにしよう。
道長の権力が盤石になったのは、長徳2年(996)の長徳の変(藤原伊周・隆家兄弟の従者が花山法皇に矢を射た事件)である。伊周・隆家兄弟は左遷され、中関白家(道隆の系統)は没落した。
ライバルが左遷されることによって、左大臣で内覧を務める道長の地位は、盤石になったのである。とはいえ、道長には大きな心配事があった。
当時、一条天皇の後宮には、藤原義子(藤原公季の娘)、藤原元子(藤原顕光の娘)が女御として入内していた。道長の娘の彰子は、まだ幼く出遅れていた。
公季は兼家(道長の父)の弟で、顕光は兼通(兼家の兄)の子であり、2人は道長に対抗しうる存在だった。道長が決して、安穏としていられなかった理由である。
長徳4年(998)、道長は重い腰痛を患ったので、これ以上の職務の遂行が困難と考えた。そこで、一条天皇に面会し、内覧を辞めたいと直訴したのである。しかも、道長は内覧を辞めるだけでなく、出家しようと考えていたようだ。
驚いた一条天皇は、道長の官職を辞したいという申し出を決して許さなかった。道長がいなくなると、困るからだろう。道長は諦めることなく、大江正衡に上表文を作成してもらった。
上表文には、道長が詮子の推薦や先祖の余慶により昇進を重ねたが、自分には徳がないことなどが書かれていた。辞職する理由をさらに詳しく書いたのだ。こうして道長は、一条天皇に再び辞職を直訴したのである。
道長の腰痛は重かったというが、本当に職務遂行が不可能なほどの重症だったのだろうか。北山茂夫氏によると、道長は病に伏している間に、たえず邪気に悩まされていたという。
道長は2人の兄が相次いで亡くなるという不幸に見舞われ、姉の詮子もなかなか病気が回復しなかった。そうした周囲の状況もあって、道長は心労が重なったと考えられ、すっかり弱気になっていたのだろう。
北山氏は周囲に不幸が訪れ、道長も腰痛になったので、死の影に恐れたと指摘する。父の兼家、2人の兄は、厳しい争いに勝利して、摂政・関白の座に就いた。
道長は伊周といざこざがあったものの、伊周は事件で自滅したので、激しい権力闘争を勝ち抜いたわけではない。その点が父や兄と事情が異なっていた。
その後、道長は宇治の山荘で過ごした。すでに腰痛は徐々に回復していたが、政務を執り行うことはなかった。もちろん出家もしなかった。
道長は単に甘えていたにすぎず、一条天皇が辞職を許可するはずがないと予想していたのだろう。単なる一種の現実逃避だったのかもしれない。
主要参考文献
北山茂夫『藤原道長』(岩波新書、1970年)