壮烈なる落語家・川柳川柳 「軍歌とジャズの落語」とその死
川柳川柳は名人・三遊亭圓生の弟子であった
川柳川柳が亡くなった。90歳である。
川柳川柳と書いて「かわやなぎ・せんりゅう」と読む。
落語家である。
もとは三遊亭圓生の弟子で、三遊亭さん生と名乗っていた。
昭和53年、圓生が落語協会を脱して別の協会を作るときに、弟子であったにもかかわらず「さん生」はそれについてついていかなかった。
落語協会に残ったため、圓生に言われて名前を返上した。
会長の五代目柳家小さんらと相談のうえ、あらたに「川柳川柳」と名乗った。洒落た名前である。
「重い空気」をひっくり返す芸人
寄席でよく見かけた。
明るく突き抜けた芸風で、重い空気の客の前に出て来ても「よーし、笑わせるぞ」と気配が横溢で、ときには実際にそう言葉に出して、とにかく盛り上げる芸人であった。
寄席では、次々とお笑い芸人が出てくるのだが、ときどき、何かのめぐりあわせで、すべての芸人が「すべり」続けることが起こる。
客が重いと言われる状態であるが、客側からすればすべての芸人がちょっとずつ客の求めているものとズレた芸を見せ続けるからであって、こっちもべつに意地で笑っていないわけではない。
地味な落語はもちろん、漫才が出てこようが、声帯模写だろうが、ウクレレ漫談が出てこようが、すべてすべり続ける。芸人も客もけっこうつらい。
そういう場面で、とても強かったのが川柳川柳である。
強い執念を持った落語家
川柳川柳は明るい気配をまとって登場し、ちまちまとした落語なんかやってるからこんな空気になるんだ、と言わんばかりに、派手で陽気な落語を見せる。
落語と言っても、自分の体験談をもとにした漫談ふうの独自な落語である。
川柳川柳は、とにかく歌った。だから場が明るくなる。
かつてソンブレロをかぶって楽器を弾きながらスペインの舞踏民謡「ラ・マラゲーニャ」を高らかに歌い、あいまに小咄を入れていくというスタイルで人気を博していた。それは晩年になってもときどき見せていたのだが、とにかく客を沸かそうということに執念を抱いていた芸人であった。
あれはどうみても“執念”である。
30回聞いても飽きない川柳川柳の落語
川柳川柳の高座はいつもほぼ同じネタであった。
戦争中の軍歌の話から、戦後のジャズ人気へとつながる世相を語り、歌を歌いつづけ、楽器も口で演じる。それで沸かせた。
いつも同じである。
20回聞いても、30回聞いても、同じで、それでも楽しい。
何年も客前で練り上げてきた芸の力である。
落語というのは、「同じものを何度見ても楽しい」というのがその基本精神にある。
「同じ話を何度聞いても面白い」を認める時代と認めない時代
落語が時代によってときに人気となり、ときにあまり関心を持たれなくなるのは、その「話を共有するという原初的形態」を社会がどう捉えるかの差にあるのだろう。
1890年代は受けたが、1930年代は受け入れられなかった。
1980年代はさっぱりだったが、2000年代にはまた人気が戻った。
そういう繰り返しである。
「同じ話を繰り返し聞く」という、いわば「原初的な文化」を社会が許容するかどうかという「世間の気分の差」によるものなのだろう。
2020年代は、いまのところは許容している感じである。
まあ、毎回同じとはいえ、川柳川柳は、凄まじく大雑把な人だったから、毎回すこしずつ違っていた。細部は気ままに変わっていた。
爆笑王・三代目三遊亭圓歌との違い
そして、常に沸かせた。
「自分の経験をもとにした漫談からオリジナルの噺を作る」という点においては、先代(三代目)の三遊亭圓歌と同じであるが、圓歌の漫談落語がいつも大笑いさせていたのに対して、川柳川柳の高座は「客を高揚させる」というところに違いがあった。
もちろん川柳の落語でも笑うのだが、大笑いしつづけるというよりは明るく朗らかにするというかなり「身体」に訴えてくるものだったのだ。
圓歌にはやや陰気なところがあり、陰の気配なのにとんでもなく面白いことを辛辣な口調でいうので、客は大笑いするという高座だった。爆笑落語と呼ばれた。
川柳川柳のほうは、もっと身体に響かせて、体そのものを動かすような芸である。
それは「歌う落語家」だったからだろう。
おそらく芸人としての激しい浮き沈みのなかで身につけた「客をどう動かすか」ということを身体的に会得した結果だとおもう。
死地で身につけた力で、どんな空気も切り裂いていくというような風情があった。
「軍歌とジャズの昭和史」を語る昭和ヒトケタ生まれ
川柳がいつも演じていた落語のタイトルは「ガーコン」と呼ばれていた。
でもこのタイトルはあまり内容を表していない。
「軍歌とジャズの昭和史」とでも言ったほうがまだわかりやすい。(これはこれでネタを割りすぎであまり良いタイトルではないのだが)
川柳川柳は昭和6年生まれである。
いわゆる「昭和ヒトケタ」と呼ばれた世代になる。
(個人的に私はこの世代が戦後思想をもっとも奇妙な方向に導いてしまった一団だとおもっていて、その影響をもろにかぶった世代として、申し訳ないのだが、かなりルサンチマンを抱いている)。
川柳6歳のときに「盧溝橋事件を発端とした日本と中国との軍事衝突」が始まり、10歳のときに米英と開戦、14歳のときに終戦を迎える。
十代前半に聞いた音楽がその人の嗜好を決めると言われているが、彼の十代は軍歌で始まり、戦後のジャズで終えている。
彼の落語は、その「歌の衝撃と世相の変化」を聞かせる一席であった。
これが昭和史の勉強になるわけではないのだが、聞いて納得するもおもしろい一席である。
戦争に勝っているときの軍歌は長調、負けると短調
秀逸だとおもうのは、軍歌は「勝っているときはメジャーの曲調が多く、負け始めるとマイナーな曲調になった」という部分である。
メジャー曲としては「月月火水木金金」とか「加藤隼戦闘隊」「空の神兵」を紹介して、歌う。朗々と歌う。
マイナーなほうはだいたい「同期の桜」だった。暗い声で歌い、でも間奏部分をボンボンボンボン、と口にするものだから、そこで笑いになる。どう転がっても楽しい一席にしていた。
勝っていたときは曲調がメジャー、負け始めたら曲調はマイナーになったというのは、実際のところそれが証明できるのかわからないが、でも事実かどうかはどうでもいいのである。寄席の噺だ。楽しければいいのだ。
これを歴史知識として学ぼうという姿勢は、どうも無粋きわまりない。
「戦後のジャズ」がもたらした驚き
昭和20年に終戦となると、アメリカ軍に占領され、今度は軍歌が禁止され、ジャズの世の中になった。
川柳川柳は、ジャズを初めて聞くものだから、驚いちゃったね、と言って、立ち上がり、トロンボーンの音から始めて楽器の音を次々と口で奏でる。見事なジャズに聞こえる。
ここが聞かせどころ、見どころである。
ここから終わりまで怒濤の勢いで進み、戦争が終わって明るくなった世相を感じさせ、うきうきさせて、オチへとつなげていく。
川柳川柳は、とにかく聞いてる者を「浮き足立たせてくれる」存在だったのだ。
『カムカムエヴリバディ』とはずいぶん違うジャズ観
彼のこの落語は、ひたすら「昭和ヒトケタ生まれ」から見ただけの戦中戦後風景というところがおもしろかった。
ある意味、めちゃくちゃ偏っているのだが、まったくその偏りを気にしてない。芸人はそういう存在でなくてはいけない。
昭和6年生まれにとっては、ジャズは「戦争に負けて初めて聞く驚きの躍動の音楽」だったわけだが、それは昭和6年生まれ(その周辺)の特別な事情に過ぎない。
いま2021年秋から始まったNHKの連続テレビ小説『カムカムエヴリバディ』では、ヒロイン安子(上白石萌音)は川柳川柳の6歳上、6歳違っているから戦争前の喫茶店でジャズを聴き、彼女は虜になっている。
だから昭和19年、まさに戦争まっ最中、生んだばかりの娘にひそかに「オン・ザ・サニーサイド・オブ・ストリート」を子守歌として聞かせていた。それが大正14年生まれである。こっちのほうが(申し訳ないが)何だか心の動きが伸びやかである。
戦後になってジャズが流れだしたとき、昭和6年生まれにとっては「初めて聞いた音楽」であるが、6歳上(大正14年生まれ)は「やっと聞けるようになった懐かしい音楽」となる。
もちろん川柳の落語はきわめて個人的な作品だから、そういう視点の移動はいっさいない。そういう落語である。
川柳川柳の壮烈さ
いつも「軍歌とジャズの昭和史」の落語を聞かせていた。
いつ聞いてもおもしろかった。
川柳川柳はその声と調子が「人をあげる」ものだった。
ある意味、壮烈な芸人であった。
かなり破壊的な芸人で、それはふだんの高座を見ても充分に感じられる凄みを持っていたのに、でも自分の作った落語の型はきちんと守りつづけた。
守り続けるところに、壮烈さがある。
ひとつ芸で何十年も高座に出続け、その姿はだから悽愴さを感じさせた。
生きている時点で、すでに伝説化している芸人でもあった。
いろんな酒のエピソードを聞く限り、ぜったいに一緒に飲みたくないとおもわせる凄みに満ちている。
芸人が死ぬと芸は消えてなくなる。
2021年11月に90歳で亡くなった。
川柳の芸は、もう高座では二度と見られない。
でも彼の「ガーコン」(軍歌とジャズの昭和史の話)は、別の芸人が引き継いで演じている。
他人が演じても充分におもしろい一席になっているのだ。
川柳がいなくなっても、川柳の芸の一部は残る。
落語を見続けていると、この繰り返しである。
芸人はいつかいなくなる。
いなくなると彼の芸は消えてなくなる。見ることはできない。
芸人は誰もが「何かの途中」で消えてしまうのだ。しかたがない。
もう二度と見られない。生きているうちに見るしかない。
でも何かは残っている。
そしてときどき、亡くなった芸人をただただ、おもいだしてしまう。
そういうことの繰り返しである。