[センバツ]かつて、マスク着用でマウンドに立った投手がいた。しかも優勝した
コロナ禍での甲子園大会は、昨年春夏に続いて3回目。ベースコーチやベンチ内の選手がマスクをつけている姿も見慣れたものとなった。とはいえ、マウンドの投手がマスクを……と聞くと、さすがにびっくりするだろう。だが、かつて実際にいたのだ、そういう投手が。
済々黌。「せいせいこう」と読む。「黌」とは学校の意味。1879年創立と熊本県最古の高校で、屈指の進学校でもある。校名は詩経の一節、「済済たる多士、文王以て寧んず」から取られた。いわゆる多士済々である。そこから、卒業生のことを「多士」と呼ぶし、校長を「黌長」、校門を「黌門」と表記する。
1958年のセンバツ。春夏通じて5回目の出場だった済々黌は、エース・城戸博が清水東(静岡)から13三振を奪う6安打完封で、初戦を突破した。ただ、雨にたたられたこの試合でレギュラー6人が風邪を引き、城戸も38度と発熱。続く新潟商戦では、なんとマスクをつけて登板したから、スタンドは驚いた。
ふつう、故障や病気という弱みは、相手に隠したいものだろう。だが、大きな白いマスクをした城戸は「相手に油断させる狙いもあった」とそれを逆手に取り、今度は16奪三振でわずか2安打と、2試合連続の完封を演じてみせる。
2試合連続完封のあとも……
当時のメンバーで、のち母校を率いた末次義久さんが、
「県立の普通校。ないものねだりをするより、割り切って、できることを徹底するのが済々黌の野球です。あのときは、強豪を倒しながら、一戦一戦チームがまとまっていきましたね」
と語るように、済々黌は勢いに乗った。準々決勝では早稲田実(東京)、準決勝は前年秋の九州大会決勝で敗れている熊本工、そして決勝は中京商(現中京大中京・愛知)と、強豪を次々に破って頂点に立つのだ。九州勢にとって初めてのセンバツ制覇、そして熊本勢としては現在まで唯一の、甲子園での優勝である。
もっとも苦しんだのが、早稲田実との準々決勝だろう。なにしろ相手エース・王貞治(元巨人)は、前年のセンバツでは2年生で優勝投手になっている。この年はバッティングにも磨きがかかり、3対2と済々黌がリードの4回、城戸が逆転2ランを浴びた。右翼席に飛び込む特大の一発は、センバツ史上初めての、2試合連続アーチだった。
だが、王"投手"を最初に攻略したのも城戸だ。マスクをつけて立った初回の打席、ポンポンと2ストライクに追い込まれたところでおもむろにマスクを外すと、王は気持ちが揺れたのか、続く3球目を痛打される。済々黌はこれで先制し、初回に3点を挙げるのだ。一時は3対5とリードされても7、8回と2点ずつを奪って逆転すると、城戸が10安打を浴びながらなんとか完投。8回途中で降板するまでの王から、4打数4安打と打ちまくった末次さんは言う。
「早実は前年優勝校。見上げるような感じだった。王の打球にも驚きましたね。最初の打席は、二遊間のゴロ。簡単に捕れると思ったら、打球が速くて内野安打になりましたから」
マスクのエース・城戸は、身長167センチと小柄ながら、5試合で53三振を奪った。これは73年、作新学院(栃木)の江川卓(元巨人)が60で抜くまでの大会記録だった。ある記事によると、本人は記録を抜かれたことを「江川は延長があったからたい」と笑い飛ばしたらしいが、73年大会の作新に延長試合はなく、しかもベスト4止まりだから、城戸の5試合登板に対して江川は4。むろん、当然投球回数は城戸のほうが多い。それでも……マスクをして甲子園のマウンドで投げたのは、おそらく城戸一人だろう。