「戦争特番のない8月」だった民放と、Nスペ「戦争特集」6本のNHK
かつて8月になれば、テレビで何本も放送されていた、「戦争」がテーマの特別番組。しかし今年の8月、民放ではほとんど目にすることがありませんでした。
ドキュメンタリー、ましてや戦争がらみとなれば、あまり高い視聴率を望めないからでしょうか。「戦争特番のない8月」だったのです。
一方のNHKは、8月6日から19日にかけて、6本の「NHKスペシャル」で戦争を扱っていました。
『祖父が見た戦場―ルソン島の戦い 20万人の最期―』
その中の1本が、8月11日に放送された『祖父が見た戦場―ルソン島の戦い 20万人の最期―』(制作はNHK名古屋放送局)です。
この番組では、『ためしてガッテン』などで知られる小野文恵アナウンサーが、ルソン島で戦死した祖父の足跡をたどっていました。亡くなった場所も日付も不確定ですが、最近公開された、アメリカ公文書館の極秘資料が手がかりとなります。
そこにはアメリカ軍がルソン島で確認した、日本兵の遺体の数と場所の詳細が記録されていました。このデータを分析し、島の地形図に配することで、戦いの進行状況が目に見える形で現われてくる。
つまり20万人の日本兵が、いつ、どこで戦死していったのかが可視化されるのです。地図上に刻々と増えていく無数の赤い点。その一つ一つが人の命であることを思うと、やはり胸がつまりました。
そしてデータと同様、当時を知る貴重な機会となったのが、生き残った元兵士たちの証言です。飢えのあまり、亡くなった僚友の革靴を煮て食べる者がいました。傷病兵たちに自決用の手りゅう弾や毒薬が配られただけでなく、銃剣によって命を奪われた者もいたそうです。
大本営は、ルソン島の戦いを本土防衛のための時間稼ぎと位置づけ、食糧を送らない「自活自戦」や、投降を禁じる「永久抗戦」を現地に強いました。敗走する祖父たちがさまよったジャングルに立った小野アナの思いを、視聴者も共有できたのではないでしょうか。
『“駅の子”の闘い―語り始めた戦争孤児―』
また、12日放送の『“駅の子”の闘い―語り始めた戦争孤児―』(制作は東京)が目を向けたのは、戦後、空襲などで親を失って孤児となり、駅の通路で寝泊まりしていた子どもたちでした。
番組は3年の歳月をかけて実態を調査し、当時の「駅の子」を探し出し、長く語らずにきたというその体験を聞いていきます。
彼らは駅の待合室に入るたび、野良犬を追い払うように足蹴にされました。ようやく行った学校では、「戦災こじき」と差別され続けます。中には、長年連れ添った夫にさえ、「駅の子」だったことを打ち明けられなかった女性もいました。
戦時中、親が戦場で命を落とすと、国は残された子どもたちを「英霊の子」「靖国の遺児」と呼び、戦意高揚の材料としても利用しました。
しかし、「駅の子」は国から見捨てられただけではありません。GHQが日本政府に浮浪児対策を求めたことで、「治安を乱す存在」として扱われ、排除されていきます。それは同時に一般市民の「嫌悪の対象」となることでもあったのです。
「なぜ自分たちが浮浪児になったのか、大人は知っているはずなのに」という無念の思いを抱えながら、必死で生き抜こうとした幼き者たち。
その証言は、国家や大人が引き起こす戦争が、非力な子どもたちにも大きな災厄をもたらし、重い犠牲を強いることを、生々しく伝えていました。
『船乗りたちの戦争―海に消えた6万人の命―』
そして13日に放送されたのが、『船乗りたちの戦争―海に消えた6万人の命―』(制作はNHK大阪放送局)です。
戦時中に徴用され、沈没した民間の船は7千隻におよび、犠牲者はなんと約6万人に達しました。その中には、危険な海上監視の任務についた、「黒潮部隊」と呼ばれる小型漁船と漁師たちも含まれています。
この番組では、やはりアメリカ公文書館の資料を基に、広い太平洋のどこで、いつ船が沈没したのかを地図上に示していきました。3年4か月の間に、なんと1ヶ月100隻のペースで船が失われていくのです。
十分な武装も持たない民間船が、猛烈な攻撃にさらされる様子を見るにつけ、軍部のずさんな計画と実行、そして戦争遂行のためにと悲観的なデータを示さない「隠蔽体質」にも、強い憤りを感じました。
これらの「Nスペ」を見ていて、何より印象的だったのは、画面に登場し、証言してくださった当事者たちが、皆さん80~90歳代の高齢者であることです。その体験や思いは、今、こうして語ってもらわなければ、次代に継承されることは不可能だったでしょう。
NHKだけでなく民放もまた、この国の歴史や過去の事実を風化させない取り組みを、ぜひ続けて欲しいと思います。