生年不詳もしくは生年が諸説ある織田信長の重臣3人
今の時代は戸籍があるので、届け出さえしていれば、まず生年不詳ということはないだろう。織田信長の重臣の中には、生年がわからない者や、生年が諸説ある者がいるので、うち3人を取り上げることにしよう。
◎村井貞勝
村井貞勝は、織田信長のもとで京都所司代を務めた重臣である。貞勝は生年不詳であるが、天正10年(1582)6月2日の本能寺の変で、子の貞成、清次ともども討ち死にした。2人の子の生年も不詳であるが、貞勝の生年を探る手掛かりは、ないわけではない。
貞勝が亡くなる5・6年前には、すでに老年に達していたことをフロイスが述べており、また別の史料で12~13人の孫がいたことが判明する。その点を考慮すると、貞勝は永正17年(1520)頃かそれ以前に生まれたという説もあるが、あくまで推測である点に注意すべきだろう。
◎明智光秀
明智光秀は信長の重臣として、丹波などの支配を任された。光秀の生年については、諸説ある。『明智軍記』などは享禄元年(1528)説、『当代記』は永正13年(1516)説、『武家伝聞録』は永正10年(1513)説などとバリエーションに富んでいる。
文献によらず、光秀の妹に関する記述に基づき、天文9年(1540)以降に生まれたとの説もある。史料の性質を考慮すると、比較的信頼度が高いとされる『当代記』によるべきとの意見もあるが、光秀が亡くなったのは、おおむね50代後半から60代ではないだろうか。
◎柴田勝家
柴田勝家は信長の重臣として、越前などの支配を任された。勝家の生年に関しては、『張州府誌』に基づき大永2年(1522)説が有力視されているが、ほかにも諸説あり、確定しているわけではない。信秀(信長の父)に仕えていたので、信長より年長なのはたしかだろう。
あえて、勝家の年齢の推定を試みるならば、早くから信秀に仕えていた点を考慮すると、信長よりも5~10歳は年長と考えられる。信長は天文3年(1534)の生まれなので、勝家が亡くなったのは50代半ばから60代半ばくらいではないだろうか。