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豊かになった昭和後半の日本、「災禍の平成」を予感させる災害もあった

福和伸夫名古屋大学名誉教授、あいち・なごや強靭化共創センター長
(写真:山田真市/アフロ)

豊かになった昭和後半の日本

 私は昭和32年2月生まれですから、昭和後半と平成以降をそれぞれ人生の半分ずつ過ごしました。昭和後半の32年間、日本は、池田勇人内閣の所得倍増計画などにより、1958年から1962年の岩戸景気や1965年から1970年のいざなぎ景気、1986年から1991年のバブル景気で、1957年に11兆円だったGDPは1989年には406兆円にもなりました。

 1960年代は、子供心にも豊かさを感じました。家電の三種の神器である冷蔵庫、洗濯機、白黒テレビが家庭の中に入り、クーラー、カラーテレビ、自動車(カー)の3Cも身近になりました。また、1964年の東海道新幹線開業と東京オリンピック開催、1968年霞が関ビル竣工、1969年東名高速道路全線開通やアポロ11号月面有人着陸などで、科学の進歩も実感しました。一方で、60年代後半には水俣病、新潟水俣病、イタイイタイ病、四日市ぜんそくなどの公害が問題化し、1969年には東大安田講堂事件もあり、高度成長の負の側面も見え始めました。海外では、1962年キューバ危機、1963年ケネディ大統領暗殺、1965年ベトナム戦争、1967年欧州共同体(EC)発足など、東西対立も深まりました。

 1970年代は、1970年大阪万博、1972年札幌オリンピック、1975年沖縄海洋博などの大規模イベントが催され、1972年沖縄返還や日本列島改造論などもあって、平和日本が実感できました。この時期には、新宿副都心に超高層ビル群が建設され、1978年には成田空港が開港し、日中の国交も正常化されました。1979年に、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」が出版され、日本人は少し有頂天にもなったように思います。一方で、1970年よど号ハイジャック事件、1972年あさま山荘事件、1978年ダッカハイジャック事件など日本赤軍などによる事件も多発しました。1973年にはオイルショックも起きています。

 私は1981年に大学院を修了して社会人になりましたが、1980年代には、1985年につくば万博が開催され筑波学園都市が作られます。1988年には東京ドームが建設され青函トンネルも開通します。また、民活が盛んに叫ばれ、1985年にNTTとJTが、1987年にJRが発足し、バブルによって1989年12月29日には東証株価が3万8915円の史上最高値を付けました。

減少した大規模気象災害

 幸いなことに、伊勢湾台風以降、昭和後半に死者1,000人を超す大きな災害は起きませんでした。1961年第2室戸台風の後、昭和後半に気象庁が命名した台風は、1966年第2宮古島台風、1968年第3宮古島台風、1977年沖永良部台風の3台風で、本州を直撃した台風はありません。ですが、豪雨災害や豪雪災害は多数ありました。

 気象庁が命名した気象災害として、1960年代には、長野県の伊那谷で天竜川の氾濫や土砂災害が起きた1961年の昭和36年梅雨前線豪雨(死者・行方不明者357人)、1963年の昭和38年1月豪雪(三八豪雪、同231人)、島根県出雲市で土砂崩れなどが起きた1964年の昭和39年7月山陰北陸豪雨(同132人)、佐世保水害とか福江水害とも呼ばれ九州北部から兵庫にかけて土砂崩れ・鉄砲水が襲った1967年の昭和42年7月豪雨(同369人)の4つがあります。これを受け、1969年に急傾斜地の崩壊による災害の防止に関する法律(急傾斜地法)が制定されます。

 1970年代には、爆弾低気圧による1970年の昭和45年1月低気圧(同25人)、熊本県や高知県など各地で土砂災害が起きた1972年の昭和47年7月豪雨(同447人)があります。また、1980年代には、長崎大水害ともよばれる1982年の昭和57年7月豪雨(同299人)、島根県浜田市中心に土砂災害が起きた1983年の昭和58年7月豪雨(同112人)があります。全体に、治水ダムや堤防の整備などによって、気象災害による犠牲者は漸減していった様子が分かります。

大火は減ったが航空機事故が増えた

 戦後に頻発した大火は、昭和後半には22.5haが焼失した1976年10月29日の酒田大火のみで、家屋の不燃化や消防力強化などで大規模火災は減少しました。一方で、個別の火災は、1972年5月13日の大阪での千日デパート火災、1979年7月11日の日本坂トンネル火災事故、1980年8月16日の静岡駅前地下街爆発事故、1982年2月8日のホテルニュージャパン火災、1984年11月16日の世田谷局ケーブル火災などが起きています。

 一方、航空機の普及で、航空機事故が起きるようになりました。1966年2月4日の全日空羽田沖墜落事故は発生当時世界最悪で、乗員乗客133人全員が死亡しました。また、1971年7月30日の全日空機雫石衝突事故では全日空機と自衛隊の訓練機が空中衝突し、旅客機の162人全員が死亡しました。1982年2月9日の日本航空羽田空港沖墜落事故では着陸進入中に機長が機首下げ操作をしたために墜落し乗員乗客174人中24人が死亡しました。さらに、1985年8月12日の日本航空123便墜落事故はジャンボ機の圧力隔壁が破壊して御巣鷹山に墜落し乗員乗客520人が死亡するという史上最悪の事故となりました。

 ちなみに、海外では、原発事故も起きています。1979年3月28日スリーマイル島原発放射能漏れ事故と1986年4月26日チェルノブイリ原発事故です。

新たな感染症が現れる

 感染症としては、H2N2亜型ウイルスによる1957年のアジア風邪とH3N2亜型による1968年の香港風邪のインフルエンザの大規模感染がありました。スペイン風邪に比べれば死者数は1/10以下でした。1976年にはスーダンでエボラ出血熱が、1981年にはアメリカでエイズ患者が、1982年には病原性大腸菌O157が発見されるなど新たな感染症も見つかっています。一方で、1980年にはWHOによって天然痘の根絶宣言が示されました。

耐震対策を促した地震

 昭和の後半に起きた地震で最も多くの犠牲者を出したのは1983年日本海中部地震の104人です。そういう意味では、地震被害が比較的少ない時期だったと言えます。

 1964年6月16日に起きた新潟地震(M7.5、死者26人)では、信濃川周辺の軟弱地盤での液状化被害や、長周期地震動によるタンク火災が話題になりました。当時、大蔵大臣だった新潟県選出の田中角栄が地震保険の必要性を訴え、1966年に地震保険に関する法律を制定しました。

 1968年5月16の十勝沖地震(M7.9、死者・行方不明者52人)では、耐震的だと思われていた鉄筋コンクリート造の建物に被害が生じました。1978年6月12日の宮城県沖地震(M7.4、死者28人)でも同様の被害があり、1981年に新耐震設計法が導入されます。宮城県沖地震ではブロック塀の倒壊で多くの子供たちが犠牲になり、ライフライン途絶や丘陵地の宅地造成地の土砂災害も起き、その後の都市型災害の先駆けとなるような被害が生じました。

東海地震対策や地震予知を促した地震

 1970年代には後の東海地震対策や地震予知に関わる地震が続発しました。1974年5月9日に石廊崎断層が活動した伊豆半島沖地震(M6.9、死者30人)が起きます。この翌年には、中国で起きた1975年2月4日海城地震(Mw7.0、死者1,300人)で地震予知が成功したと報じられました。当時は、プレートテクトニクス理論が確立し地震予知の気運も盛り上がっていた時期です。

 1976年には石橋克彦博士が駿河湾地震説(東海地震説)を唱え、東海地震がいつ起きてもおかしくないと言われました。ほぼ同時期の8月18日に静岡県で小規模な河津地震(M5.4)が起き、海外でも、7月28日に中国・唐山地震(Mw7.5、死者24万2,000人)、8月16日にフィリピン・ミンダナオ地震(Mw8.1、死者3,700人)が起きました。1978年1月14日には伊豆大島近海の地震(M7.0、死者25人)も起きたため、静岡県民の動揺は大きかったようです。

 このため、ときの総理大臣・福田赳夫は、地震予知を前提にした大規模地震対策特別措置法を6月16日に制定しました。以後、1995年阪神・淡路大震災まで、我が国では直前予知を前提とした地震対策が行われるようになりました。

海や山で起きた地震や火山噴火

 1980年代には、海と山で地震が、伊豆諸島では火山噴火が起きます。1983年5月26日に秋田沖で日本海中部地震(M7.7、死者104人)が起き、津波によって昭和後半の地震で最大の犠牲者が出ました。この地震をきっかけに、日本海東縁変動帯の存在が議論されるようになりました。

 翌1984年には9月14日長野県西部地震(M6.8、死者・行方不明者29人)が起き、御嶽山が山体崩壊します。ちなみに、この地震の5年前の1979年10月28日に御嶽山は有史以来の水蒸気噴火をしました。また、伊豆諸島でも火山活動が活発になりました。

 1983年10月3日に三宅島が、1986年11月15日に伊豆大島の三原山が噴火しました。三原山の噴火では全島避難することになりました。さらに、1989年7月13日に伊東市の沖合の海底で噴火がありました。当時、南から北へ火山活動が移動しているように見え、気持ち悪さを感じた記憶があります。

海外での巨大地震と大規模噴火

 一方、海外でも1980年5月18日に富士山のように美しかったセントへレンズ山が噴火し、山体崩壊で岩屑雪崩を起こして無残な姿に変わりました。

 さらに、1985年9月19日にはメキシコ地震(Mw8.0、死者5,900人以上)が発生し、震源から遠く離れたメキシコシティで多くの建物が倒壊しました。メキシコシティは北緯19度という低緯度に位置するため、高地のテスココ湖を埋め立てて作ったまちです。このため、盆地状に厚く堆積した軟弱な地盤が長周期の揺れを増幅して高層ビルなどを破壊しました。

 セントヘレンズ山は富士山噴火を、メキシコシティは首都直下地震を彷彿させます。

 このように昭和後半は、大都市を襲う大規模災害がなかったため、日本は高度成長を遂げることができました。ですが、この時期に起きた様々な災害は、平成以降に頻発する大規模災害での被害を予感させるものでした。

名古屋大学名誉教授、あいち・なごや強靭化共創センター長

建築耐震工学や地震工学を専門にし、防災・減災の実践にも携わる。民間建設会社で勤務した後、名古屋大学に異動し、工学部、先端技術共同研究センター、大学院環境学研究科、減災連携研究センターで教鞭をとり、2022年3月に定年退職。行政の防災・減災活動に協力しつつ、防災教材の開発や出前講座を行い、災害被害軽減のための国民運動作りに勤しむ。減災を通して克災し地域ルネッサンスにつなげたいとの思いで、減災のためのシンクタンク・減災連携研究センターを設立し、アゴラ・減災館を建設した。著書に、「次の震災について本当のことを話してみよう。」(時事通信社)、「必ずくる震災で日本を終わらせないために。」(時事通信社)。

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