女性だけで演じる『ジュリアス・シーザー』は、暗殺劇にかかわる人たちの深く繊細な心情の変化を伝える
「3月15日は、ユリウス・カエサル(英名ジュリアス・シーザー)が暗殺された日」。これはヨーロッパでは誰もが知っている常識なのだそうだ。
紀元前44年3月15日、シーザーの独裁を恐れるキャシアスらの一派は人望厚いブルータスをリーダーに祭り上げ、暗殺を決行する。だが、ブルータスらは民衆の支持を得ることができず、代わりに権力を手にしたのは、オクテイヴィアスと手を組んだアントニーだった…。
短期間に目まぐるしく変化していくこの過程を演劇の題材として選んだのが、シェイクスピアである。戯曲『ジュリアス・シーザー』はシェイクスピア作品の中では珍しい政治劇だが、このたびのパルコ・プロデュース2021『ジュリアス・シーザー』では、これを女性だけで演じてみせる。
シルビア・グラブ演じるシーザーは、物語の柱としての揺るがぬ存在感がある。松井玲奈のアントニーは、野心を燃やしつつ真っ直ぐに生きるさまが潔い。松本紀保演じるキャシアスは、欠点も多いが、それもまた人間らしさだと思わせてくれる。そして、全編通して「高潔な士」と称されるブルータスを演じる吉田羊の凛とした演技が、この作品に筋を通している。
アントニーの巧みな弁舌によって、人々がみるみるうちに扇動されてゆくさまは、毒をもった呟きでいとも簡単に「流れ」が決まってしまう現代のSNSを彷彿とさせる。いつの時代も変わらぬ大衆の姿に、うすら寒い思いがする。
シーザー暗殺を主導する者、巻き込まれる者、遠くから眺める者、そして利用する者…それぞれの思惑の克明な描写に唸らされる。ふと漏れる本音にはっとさせられる。昨日の味方は今日の敵、一連の複雑怪奇な流れにも腹落ちできた気がした。改めて、シェイクスピアの偉大さを思い知るばかりである。
シンプルな舞台装置と衣装で構成される「引き算」の舞台が、この複雑な政治劇には合っているように思う。余計な虚飾がない分、神経を研ぎ澄ませてセリフの一言一句に耳を傾けることができるのだ。こうして作品世界に没入していく感覚は、文楽を観ているときの感じにも似ている気がした。
と、ここまで書いたところでようやく、この作品一番の趣向である「女性のみで演じるシェイクスピア作品」であることに踏み込もうと思う。
じつは観劇中、「女性のみで演じている」ことを意識することはほとんどなかった。「ほとんど」というのは例外的に、シーザーの妻キャルパーニアとブルータスの妻ポーシャの登場場面だけは意識せざるを得なかったからだ。だが、違和感を感じたのが全編を通じてこの2場面だけであったことは、逆に「性差というのは意外とこの程度のものなのかもしれない」という思いにもつながった。
かといって「男性の役を、まるで本物の男性のように上手く演じている」と感じた訳でもない。つまり、この芝居の間は、性のことをほぼ忘れていられたのだ。その意味でこの作品は、「性を飛び越えた」というよりむしろ「性を払拭した」といえるのかもしれない。
仮にこれを男性ばかりで(というか普通に)演じたら、より生臭い権力闘争劇になってしまうような気がする。この「生臭さ」がない分、より深く繊細な心情の変化を感じ取ることができた。これまで私はアントニーの野心もキャシアスの狡さもあまり好きではなかったし、ブルータスはちょっと理想家すぎると思っていた。だが、この作品に登場する3人には共感を覚え、親しみさえも感じた。
演出の森新太郎は「女性が演じることで『こんなことは本来望んでいない』という、底にある哀しみが見えてくるのだ。また愛情表現も、女性のほうが真っ直ぐに他者の心へ向かうが故に、より力強く感じられる」と述べておられる(プログラムより)。それは結局、私が感じたようなことなのかもしれない。
あるいは、これが男性ばかりで(普通に)演じられたなら、その舞台に対しては「所詮これも男の世界のお話」と、心のどこかで線を引いて観てしまったかもしれない。私自身が女性だからこそ、我がこととして観られた部分もあるだろう。そしてそのことが図らずも、裏切り、扇動、権力への執着といった人としての醜い部分も、決して男性だけの専売特許ではないことを突きつけてくるのだ。
この作品、男性の目からはどのように見えるのかということも興味深い。カップルで観に行って、終演後に感想を交換し合うのも面白いのではないだろうか。