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交通事故で息子を失った母が「池袋・母子死亡事故」に寄せる思い

柳原三佳ノンフィクション作家・ジャーナリスト
息子が亡くなった交通事故の真実を追求し続ける母・阿部智恵さん(筆者撮影)

「たった一瞬で私たちの未来は奪われてしまいました。悔しくて、悔しくて、しかたがありません……」

 4月19日、東京の池袋で起こった乗用車の暴走事故。最愛の妻と3歳の娘の命を奪われた夫が、振り絞るように発した言葉はあまりに重く、心の奥に突き刺ささりました。

 あの会見を聞いた多くの人が、ハンドルを握るドライバーとして、また、愛する家族とともに生きる一人の人間として、加害者、被害者、双方の立場からさまざまな思いを巡らせたことでしょう。

 かつて取材させていただいたご遺族は、私にこうおっしゃいました。

「事故によって奪われたのは、被害者本人の命だけではありません。これから生まれてくるであろう子供や孫、その後に続く数えきれない命と未来が、一瞬で全て消されてしまったと同じことなのです。この悔しさをどこにぶつければよいのか」

 一瞬で未来が奪われる……、これは、すべての交通事故被害者、遺族に当てはまる言葉です。

 また、別のご遺族からはこんなメッセージも寄せられました。

「報道を見て、本当に胸が痛みました。残されたご主人はどれほど辛い思いをされていることでしょうか。でも、たったひとつだけ、『よかったですね』と言って差し上げたいことがあります。それは、お子さんとともに亡くなった奥さまが、きちんと青信号を守っておられたという事実が証明され、故人の名誉が守られているということです。事故の瞬間を裏付ける防犯カメラやドライブレコーダーのような証拠がない場合は、真実がうやむやにされ、『死人に口なし』で事件が進んでしまうことがあるからです」

■婚約者の目の前で失われた命

 このメッセージを寄せてくださったのは、静岡県の阿部智恵さんです。

 阿部さんは今から18年前、次男の浩次さん(当時29)を交通事故で失いました。会社から帰宅するため、大型バイクで幹線道路を直進中だった浩次さんは、突然Uターンしてきた対向の軽トラックに行く手を阻まれたのです。

 阿部さんはその日の出来事を、まるで昨日のように振り返ります。

「病院に駆け付けたとき、浩次はすでに息を引き取っていました。頬に触れると、異様な冷たさでした。胸で組まれた手を握ってみましたが、硬くてびくともしません。私は全身の震えが止まりませんでした。でも、浩次の彼女の辛さは、私の想像をはるかに超えるものだったと思います」

 実は、浩次さんと結婚を約束していた女性は、彼が救急搬送された病院の看護師だったのです。

「救急車で運ばれてきた被害者が浩次だとわかったとき、彼女は驚きのあまり、しばらく立ち上がることが出来なかったそうです。私は、友達に肩を抱かれて泣き崩れている彼女に駆けよって抱きしめ、一緒に泣くことしかできませんでした。浩次を愛し、支えてくれた彼女……。私は無意識のうちに、『ありがとう。ありがとう……』そう言っていました」

 一瞬の事故は、浩次さんとの新しい生活を目前に控えていた彼女の未来も、奪い取ってしまったのです。

大学時代は「内燃機関研究部」に参加し、バイクの構造や乗車法、法規などを学んでいた浩次さん。運転技術を磨くため、モトクロス競技にも力を入れていた(遺族提供)
大学時代は「内燃機関研究部」に参加し、バイクの構造や乗車法、法規などを学んでいた浩次さん。運転技術を磨くため、モトクロス競技にも力を入れていた(遺族提供)

■青信号で直進していたはずなのに……

「息子さんの側の信号は確かに青でした。目撃者もいます。事故の原因は強引にUターンした対向車にあります」

 事故直後、警察は阿部さん夫妻にそう説明していました。

 絶望の中、浩次さんに過失がなかったことだけは、唯一の救いでもありました。

 ところが、事故から1年2カ月後、対向車のドライバーが不起訴になったという知らせが入りました。

 阿部さんが検察庁に問い合わせたところ、信じられないことに、浩次さんが赤信号を無視したことになっていたのです。

『警察では確かに青信号での事故だと聞いていた、それなのに、なぜ、信号の色が、突然「青」から「赤」に変わったのか……?』  

 阿部さん夫妻が検察庁に深く尋ねると、

「対応した副検事には、『相手は最初から赤だと言ってんだー!』と物凄い剣幕で怒鳴られ、説明してもらえませんでした。状況が理解できなかった私たちは、静岡の自宅から愛知の事故現場へ40回以上足を運び、信号サイクルなどを調査し、浩次の友人たちにも協力してもらって走行実験も何度も繰り返しました。そして検察審査会に異議を申し立て、国家賠償訴訟も起こしました。でも、結果的に、息子が青信号で直進していたという事実が認められることはありませんでした」

 阿部さんは2年前、その経緯を『僕は、信号無視をしていない! 検察の理不尽な捜査と戦った、母の15年間の記録』(阿部智恵著・ブックウェイ)という本にまとめ、自費で出版しました。

 この事故の処理の経緯と遺族としての無念を、せめて後の世に残しておきたいという一心からでした。

阿部さんが亡き息子の交通事故処理の経緯をまとめて自費出版した本『僕は、信号無視をしていない!』(ブックウェイ)
阿部さんが亡き息子の交通事故処理の経緯をまとめて自費出版した本『僕は、信号無視をしていない!』(ブックウェイ)

 事故の瞬間を裏付ける動画などの客観的な証拠がない場合、相手側の供述が大きく変わることがあります。

 実際に、私は阿部さんと同じような経験をされている交通事故の被害者、遺族を数多く取材してきました。

 まさに「死人に口なし」の理不尽な捜査や過失割合の査定が、まかり通ってしまうことがあるのです。

■事故を起こした者が、最後に果たすべき責任とは

 交通事故は、何の前触れもなく、突然平穏な暮らしを破壊します。

 しかも、その瞬間までは縁もゆかりもない、見ず知らずの他人の不法行為によって……。

 4月27日のNHKニュースは、池袋で起こった母子の死亡事故について、次のように報じていました。

『運転していた87歳の高齢者は右足を治療中で、医師から車の運転をなるべくしないよう指示されていたことがわかりました。警視庁が足の状態がどう影響したか調べています。』

 警視庁は今後、アクセルとブレーキを操作する右足の状態が運転にどう影響していたかを調べるとともに、運転していた男性の退院を待って本格的に事情を聴くことにしているとのことです。

 なぜ医師から指示を受けていたにもかかわらずハンドルを握ったのか。

 アクセルペダルが戻らないと話したのはなぜだったのか。

 そして、青信号を守っていた親子が、なぜ、守られるべき横断歩道上で犠牲になったのか……。

 運転していた男性には、事故を起こした者の最後の責任として、誠実に真実を語り、そして、同様の事故の再発防止に自ら一石を投じてほしいと思います。

ノンフィクション作家・ジャーナリスト

交通事故、冤罪、死因究明制度等をテーマに執筆。著書に「真冬の虹 コロナ禍の交通事故被害者たち」「開成をつくった男、佐野鼎」「コレラを防いだ男 関寛斉」「私は虐待していない 検証 揺さぶられっ子症候群」「コレラを防いだ男 関寛斎」「自動車保険の落とし穴」「柴犬マイちゃんへの手紙」「泥だらけのカルテ」「焼かれる前に語れ」「家族のもとへ、あなたを帰す」「交通事故被害者は二度泣かされる」「遺品 あなたを失った代わりに」「死因究明」「裁判官を信じるな」など多数。「巻子の言霊~愛と命を紡いだある夫婦の物語」はNHKで、「示談交渉人裏ファイル」はTBSでドラマ化。書道師範。趣味が高じて自宅に古民家を移築。

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