戦国・織豊時代の恩賞付与の基準となる首実検は、どのように行われたのか
今や会社員だけでなく、あらゆる分野で評価制度が導入されている。それにより、今後の出世や給料などが決まる。ところで、戦国・織豊時代の恩賞付与の基準となる首実検は、どのように行われたのか考えてみよう。
戦国・織豊時代の合戦後、各将兵に恩賞を与える基準となったのが、討ち取った敵の首の数だった。将兵は敵兵を討ち取ると、最後に刀で首を掻き切り、腰にぶら下げていたのである。
敵兵をたくさん討ったとき、重たい首を腰にぶら下げるのは大変なことだった。そこで、首ではなく上唇の部分(あるいは耳)を切り取り、腰にぶら下げることもあった。上唇には髭の剃り跡があったので、成人した男子であるとわかったのだ。
雑兵の首は上唇でもよかったが、大将や重臣クラスは例外である。敵の大将や重臣を討った際は、首だけでなく兜を付けたままであることが大きなポイントだった。これは「兜首」といわれ、雑兵を討つよりも高く評価されたのである。
もし、大将級の首を取ったにもかかわらず、兜を捨ててしまった場合は悲劇だった。首の価値は下がってしまい、恩賞に反映されなかったのである。大坂の陣のケースでも、兜が重たくて捨ててしまい、見合っただけの恩賞をもらい損ねた将兵の存在が知られている。
拾った首(拾い首)やほかの将兵からもらった首(もらい首)は評価されず、それは女性や子供の首も同じだった。女性や子供の首はすぐにわかるとしても、拾い首やもらい首はどうやって不正な首であることを確認したのだろうか。
大坂の陣の例でいえば、将兵は常に複数で行動し、一緒にいた将兵同士が敵の首を取ったときの状況を確認する証人になった。首実検の際には、同行した将兵らに首を取った状況を聞き取ることで、その首が不正であるか否かを確認したのである。
このように、首実検は入念に行われ、軍功を挙げた将兵には恩賞が与えられた。大坂の陣の際、加賀前田家では与える恩賞(知行)が限られていたので、厳選主義で臨んだといわれており、首を取った状況などが念入りに調査されたのである。