1990年の『ちびまる子ちゃん』とたまと『ガロ』──さくらももこのマニアックな趣味とメジャーの覚悟
2018年にマンガ家のさくらももこが亡くなってから5年が経った。『ちびまる子ちゃん』を筆頭に多くのヒットを飛ばし、没後もスタッフによるマンガ連載とアニメは継続している。
そんなさくらももこは、大ヒットマンガ家の顔を持ちながらも極めてマイナーの文化を好んでいた。それは『ちびまる子ちゃん』からも少なからずうかがえた。彼女が亡くなった直後のレビューを再掲する(初出:『論座』2018年09月20日)。
“隠し味”として混じる“毒”
1990年は、バブルの真っ最中だった。
前年に元号が変わった日本社会には、ひたすらに明るい雰囲気が漂っていた。世界に目を向けても、前年の11月にベルリンの壁が崩壊し、冷戦構造が完全に終了した。東欧諸国では政変が起き、民主化が進んでいった。米ソの核戦争が回避されたと、世界は安堵していた。アニメ『ちびまる子ちゃん』が大ヒットしたのは、そんな年だった。
さくらももこの『ちびまる子ちゃん』は、しばしば「国民的アニメ(マンガ)」と評されてきた。老若男女問わず、日本のほとんどのひとに受け入れられたという点でそうした形容をされるのだろう。日曜夕方『サザエさん』の前番組として、70年代の3世代同居の一家を描いた点も「国民的」と認識されるゆえんだろう。
しかし、その内容は『サザエさん』と比べると、“隠し味”的な表現が多く含まれている。より平易な表現をすれば、“毒”が混じっている。
たとえば永沢君のようなひねくれた存在や、野口さんのような陰のあるキャラクターも目立つ。みぎわさんは空気の読めないキャラで、丸尾くんはガリ勉でこうるさい学級委員長だ。そうした存在は、同じく「国民的アニメ(マンガ)」として愛されてきた『サザエさん』の花沢さんや、『ドラえもん』のジャイ子などと比べると、ずっと生々しい。けっして、単なるほのぼのとした小学生が描かれているわけではない。
もちろんそれでも大ヒットしたのは、さくらももこのたぐいまれなメジャー感覚があったからだ。“毒”が単なる露悪的な表現にならず、主人公のまる子を引き立てる“隠し味”となっている。冷静に考えれば、まる子はちょっとトボけたところはあるが普通の女の子だ。彼女を引き立てるのが、個性的な周囲の存在であり、ナレーションによるシニカルなツッコミだ。
『サザエさん』や『ドラえもん』には見られないこうしたある種のぶっちゃけた表現こそが、この作品を広く訴求させた要因だろう。視聴者はみずからの幼少期をそこに重ね、リアルな小学3年生を感じ取っていた。
マイナー文化『ガロ』との繫がり
『ちびまる子ちゃん』のこうした“隠し味”は、さくらももこのマニアックな趣味から導かれたものだ。
よく知られているように、登場するキャラクターの名前はマイナーなマンガ誌『ガロ』(青林堂)で活動をしていたマンガ家から取られている。花輪くんは花輪和一、丸尾くんは丸尾末広、みぎわさんはみぎわパンである。当時の『ガロ』は、白土三平が『カムイ伝』を連載していた60年代の面影はまったくなく、実験的な作品が並ぶアンダーグラウンドな雑誌だった。現在タレントとして活躍する蛭子能収や杉作J太郎などの奇っ怪な作品が毎月掲載されており、おそらく部数は1万部もなかったのではないか。
「国民的」と評されるアニメが、なぜかそんなマイナー文化と繋がっていたのだ。『ちびまる子ちゃん』を通してこの丸尾末広や花輪和一を知ったひとは、おそらく仰天したことだろう。彼らの作品は、エログロとナンセンスだからだ。
こうした『ガロ』から影響を受けたであろう表現も、さくらももこ作品ではチラホラ見受けられる。その筆頭はやはり『神のちから』や『COJI-COJI』だろう。
たとえば『COJI-COJI』は、「メルヘンの国」を舞台とはしているものの、主人公のコジコジを中心に奇妙なキャラクターによるシュールな物語が展開される。たとえば1巻の「学級劇 ちびまる子ちゃん」の回では、登場人物たちが『ちびまる子ちゃん』の劇をやるというもの。まる子に何回も会ったことがあったと言うコジコジは、彼女のことをこう評す。
「あの人バカだけど すこしはいい人だよ」
一事が万事この調子なのである。大ヒットした『ちびまる子ちゃん』に対し、そこでできない表現を『COJI-COJI』で放出させていたようにも思える。
『紅白歌合戦』の奇妙な光景
1990年は、ポップカルチャーはまだまだメジャーとマイナーが明確に分断されていた時期だ。筆者が当時の『ガロ』を知ったのは、新しくできた地元のショッピングモール内の書店に置かれていたからだ。その表現は、当時高校1年生になったばかりの自分に大きなショックを与えた。そこには『少年ジャンプ』や『りぼん』(ともに集英社)ではけっして見られない前衛的な表現が並んでいたからだ(そのなかでも筆者が好んだのは蛭子能収と山田花子の作品だ)。
インターネット以前のこの時代、情報流通の中心がマスメディアであった状況においては、メジャーシーンに乗らない表現は雑誌や深夜テレビで局所的に活性化するのみだった。
その代表例が、89年から90年にかけて大ヒットしたTBSの深夜テレビ番組『三宅裕司のいかすバンド天国』、通称『イカ天』だろう。毎週アマチュアバンド10組が登場し、パフォーマンスを披露してキングの座を競い合うというものだ。ここに登場して注目され、その後メジャーシーンで活躍したのがBEGINやブランキー・ジェット・シティ、ジッタリン・ジンなどだ。
なかでももっとも大ブレイクしたのは、たまである。
1990年、この年の元旦におこなわれた「輝く!日本イカ天大賞」で大賞を獲得し、5月に「さよなら人類」でメジャーデビューし、またたく間に大ヒットとなる。
アコースティックバンドのたまは、ロック中心のバンドブームとは完全に一線を画すものだった。メンバーの4人は、それぞれがヴォーカルを担当し、曲ごとに異なる楽器を用いた。「さよなら人類」のメインヴォーカルである柳原幼一郎は、同曲ではピアノを弾いているが、ほかにもアコーディオンやギター、オルガン、ピアニカを演奏する。ギタリストの知久寿焼も、2枚目のシングル「オゾンのダンス」で演奏するのはマンドリンだ。従来のバンドブームの枠に縛られない構成が大きな特徴だった。
同時にそんなたまの楽曲の多くは、マイナーシーンでしか表現できないような個性を見せていた。「さよなら人類」は『猿の惑星』をモチーフとした人類滅亡ソングであり、同シングルのカップリング曲「らんちう」は金魚と子どもたちの悲哀を重ねた内容だ。またパーカッション担当の石川浩司の「カニバル」は、1930年代のアメリカ映画『フリークス』をヒントとしている。これなどは、確実に放送コードに引っかかる曲だ。
一発屋のコミックバンドとして認識されることもあったが、実際のたまはこのような「アングラ前衛バンド」だった。それがなぜか大ブレイクし、「たま現象」と呼ばれるほどの人気となった。
大晦日には、「おどるポンポコリン」を歌うB.B.クィーンズとともに『紅白歌合戦』に出場したが、いま思えばなんとも奇妙な光景だ。
さくらももことたまの関係
そんなたまは、『ガロ』やさくらももことも深い関係があった。
丸尾末広などが活躍していた89年から91年頃にかけて、『ガロ』の目次欄に知久寿焼は毎月イラストを掲載していた。たまがメジャーデビューする前からだ。『ガロ』掲載のマンガ作品とたまの楽曲の親和性が高いのは間違いなかったが、それに気づいているのはごく一部だけだった。
さくらももことたまの関係は、当時の夫で『りぼん』時代には担当編集者だった宮永正隆(通称“みーやん”)とともに繋がっていた。バンドブームを牽引してきた雑誌『宝島』(JICC出版局/現宝島社)では、宮永構成による「月刊たまぷくろ」が連載され、さくらももこもそこでたまをモチーフとした4コママンガを連載していた。
その後、さくらももこは1992年にたまのはじめてのベストアルバム『まちあわせ』のジャケットのイラストを手がけ、同年の劇場版アニメ『ちびまる子ちゃん わたしの好きな歌』でもたまの「星を食べる」が挿入歌として使われている。また、さくらが脚本を手がけた93年のドラマ『さくらももこランド・谷口六三商店』にたまがゲスト出演するのも、こうした縁からのことだ。そして、96年にはアニメ『ちびまる子ちゃん』のエンディング曲として、さくらももこ作詞によるたまの「あっけにとられた時のうた」が生まれた。
さくらももこにとって、たまは間違いなくもっとも関係が深いミュージシャンだった。
メジャーで生きることの矜持
さくらももこ、たま、『ガロ』――1990年におけるこの3者はけっして切り離されるものではなく、同じ文脈に位置づけられる。もちろん社会全体でそうした受け止められ方はされなったが、枠に留まらない表現を目指していたという点でこの3者は共通する。
そのなかでさくらももこが唯一異なったのは、おそらくメジャーシーンで生き続けることの覚悟を持っていたことだろう。
たまは、メジャーに固執せずインディーズに戻ってマイペースに活動を続け、2003年に解散した。『ガロ』は版元の青林堂の創業者・長井勝一が亡くなった後に分裂し、後に休刊。経営者が代わった現在の青林堂は極右系書籍の出版元に姿を変えている。
対してさくらももこは、そもそも当時200万部に迫っていた小中学生女子向けの『りぼん』でデビューしたマンガ家だ。86年から連載が開始された『ちびまる子ちゃん』は、そこの看板作品だった。アニメも92年に一旦は中断したもの、95年に再開してからいまも続いている。『神のちから』や『COJI-COJI』というガス抜きをしながらも、彼女は常にメジャーシーンを歩き続けた。
メジャーで生き続けることは、とても怖いことでもある。同じことを続けていれば「マンネリだ」と批判され、変化を見せれば「前のほうが良かった」と悲しい顔をされる。ひとびとは気まぐれで、人気はすぐに移り変わる。マンガ家にかぎらずメジャーの世界を生きるひとは、常に人気を失う緊張感と闘っている。
さくらももこの32年にわたる仕事を振り返って強く感じるのは、やはりメジャーで生きることの矜持だ。彼女は独自のマニアックな趣味を取り入れながらも、作品からは常にそのバランスに気をかけていたことがうかがえる。
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