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決して埋もれさせてはならない作品──朱戸アオ『ネメシスの杖』

松谷創一郎ジャーナリスト
朱戸アオ『ネメシスの杖』書影(筆者撮影)。

ハリウッド映画に通ずる卓越した“メジャー感”

マンガ界はやはり豊かだ──。

数年に一度、そうしたことを強く感じさせられる作品に出合うことがある。それまでほとんど目立ってなかった若手が、とてつもないレベルの作品を送り出す。近年で思い出すのは、『坂道のアポロン』の小玉ユキや『進撃の巨人』の諫山創などだ。この両作品は、その後すぐにヒットし、作品も内容も評価され、映像化もされた。順風満帆な道を歩んでいった。

何気なく本屋で買った朱戸アオの『ネメシスの杖』(講談社/単巻)を読んだときの感覚は、『坂道のアポロン』や『進撃の巨人』に出合ったときのそれに近かった。またひとり、マンガ界に優れた才能を持った存在が現れたのだ。

『ネメシスの杖』は、本当に見事なマンガだ。ジャンルで言えばミステリー。厚生労働省・患者安全委員会の調査官である阿里玲が、寄生虫による感性症・シャーガス病の拡大を調査するという内容だ。

ミステリーなので、中盤以降の展開については言及しにくいが、それは『このミステリーがすごい!』でトップに立ってもおかしくないほど、とにかく巧みな構成だ。それだけでなく、シャーガス病というネタの新鮮さや、主人公の女性と義手の寄生虫研究者のキャラクター性、さらにクライマックスでの映像的な盛り上がり等、すべてにおいてクオリティが高い。なにより驚きなのは、これが単行本2作目の若手によって描かれているということである。

連載されたのは、マニア向けの作品が多い『アフタヌーン』だったが、『ネメシスの杖』の特徴は強い“メジャー感”があることだ。おそらく作者は映画から強い影響を受けている。そのしっかりとした一般性は、ハリウッド映画や最近の韓国映画にある強いエンタテインメント性に通じるものである。

日本のコンテンツ業界の基盤はマンガ

朱戸アオ『ネメシスの杖』(講談社/2013年/650円)
朱戸アオ『ネメシスの杖』(講談社/2013年/650円)

しかし、残念ながらこの作品はまだまったく目立っていない。ネットでの反応を探ると、読んだ人はほとんどが絶賛しているものの、そもそもあまり読まれていない。発売から1週間以上経っても、こうした状況が続いている。熱心なマンガ読みですら、この作品の存在にはあまり気づいていないようだ。

マンガに限らず、どのジャンルでも良い作品が必ずヒットするということはない。映画などは特にそうだ。あまりにも商品点数が多い現状では、見逃される作品も必然的に出てくる。マンガ界も、産業的なピークにあった90年代中期と比較すると、出版点数は倍ほどに増えている。それらすべてを網羅して読む人などいない。

また、強い一般性を持ちながらも、日本のコアな受け手(読者や観賞者)には響かないタイプの作品もある。ゲームや映画では、優れた外国の作品が日本ではまったくヒットしないことは日常茶飯事だ。結果、素晴らしい才能や作品が、埋もれたまま終わってしまうことも多々ある。

『ネメシスの杖』でひとつ思い出すのは、土屋ガロン作・嶺岸信明画による『ルーズ戦記 オールドボーイ』だ。このマンガが一躍注目を浴びたのは、2003年にパク・チャヌク監督によって韓国で映画化された『オールド・ボーイ』が、カンヌ国際映画祭でグランプリ(審査員特別賞)を獲得したときだった。それまで目立たなかった作品をしっかりと評価したのは、日本のマンガ読者や評論家、あるいは映画やドラマ業界ではなく、韓国映画界だったのだ。そして、原作の『ルーズ戦記 オールドボーイ』は、それから再評価されるという経緯を辿ったのだった。

それらを踏まえると、もしかしたら朱戸アオの最大のネックは、その“メジャー感”にあるのかもしれない。さまざまなニーズに合わせて多様な表現が日々送り出されるマンガ界では、こうした“メジャー感”がマッチするマーケットがいまはないのかもしれない。

私がいま強く危惧しているのは、この『ネメシスの杖』と作者の朱戸アオがこのまま埋もれてしまうことである。朱戸の才能の確実さは、前作であるパンデミックもののデビュー単行本『Final Phase』からも十分に受け取れる。

日本のコンテンツ業界の基盤となっているのは、間違いなくマンガだ。ドラマも映画もアニメも、常にマンガの強さを頼っている。優れた才能が、映画でも小説でもなくマンガの道を進むのは、他国にはないこの豊饒な文化があるからこそである。日本にこれほどまでにメジャー感のある、しっかりとしたストーリーを構築できる脚本家がどれほどいるのか?

マンガ界だけでなく、コンテンツ業界すべての人はこうした事態に自覚的である必要がある。そして、まだ多くの人が気づいていない優れた才能を持つ存在にしっかりと目を向け、発掘しなければならい。未来はそうして創られる。

◯関連

Amazon:朱戸アオ『ネメシスの杖』(講談社/2013年/650円)Kindle版/525円

「ネメシスの杖/朱戸アオ 第1話 - モーニング・アフタヌーン・イブニング合同Webコミックサイト モアイ」(※第1話のみ無料で読めます)

朱戸アオ『Final Phase』 (PHP研究所/2011年)

ジャーナリスト

まつたにそういちろう/1974年生まれ、広島市出身。専門は文化社会学、社会情報学。映画、音楽、テレビ、ファッション、スポーツ、社会現象、ネットなど、文化やメディアについて執筆。著書に『ギャルと不思議ちゃん論:女の子たちの三十年戦争』(2012年)、『SMAPはなぜ解散したのか』(2017年)、共著に『ポスト〈カワイイ〉の文化社会学』(2017年)、『文化社会学の視座』(2008年)、『どこか〈問題化〉される若者たち』(2008年)など。現在、NHKラジオ第1『Nらじ』にレギュラー出演中。中央大学大学院文学研究科社会情報学専攻博士後期課程単位取得退学。 trickflesh@gmail.com

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