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ドラマ秘話:「3年B組金八先生」のOPの原点は「8時だョ! 全員集合」にあった。TBS名演出家の回想

木俣冬フリーライター/インタビュアー/ノベライズ職人
(写真:GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート)

2020年、「愛していると言ってくれ」が再放送で盛り上がった。このドラマの演出を手掛けたのは、巨匠・生野慈朗。TBS ドラマ屈指のエモーショナルな演出家である。ドラマのTBSを作り上げた立役者と言っていい。

「3年B組金八先生」の伝説の中島みゆき回を作ったのもこの方。金八先生が「3年B組!」と言って生徒が「金八先生〜」と胴上げするOPも生野さんが作った。

70 年代から TBSドラマを作っている生野さんにドラマの裏話を聞いた。そうしたら、意外な事実も発覚。「金八先生」のOPは生野さんがADをやっていた「8時だョ! 全員集合」のOPがヒントになっていたのだ。

TBSで「ビューティフルライフ」などを一緒に作ってきた植田博樹プロデューサーに聞き手になってもらって、生野さんの演出家としての歴史を振り返る。

まずはAD 時代編

AD時代編:「8時だョ! 全員集合」の裏話 ネタは会議室で作って……

植田:「愛していると言ってくれ」はいまのTBSの恋愛もののオリジンだなと思いますよ。

生野:あのとき、俺、1年間に立て続けに4本もドラマを撮っていたんだよな。「私の運命」(94年10月〜95年3月)「ジューン・ブライド」(95年4月〜6月)「愛していると言ってくれ」(95年7月〜9月)、「金八先生」第4シリーズ(95年10月〜96年3月)。家に帰る時間がなくて、住民票をマイクロバスに移してもいいんじゃないかと思うくらい働いていた(笑)。

植田:ほんとですね(笑)。そもそもTBSに入られた動機はなんですか。

生野: そこから?(笑)

植田:今日は根掘り葉掘り

生野:当時はね、青田刈りで、商社や金融などの人気企業は大学3年のときに大体内定が出てしまっていたんだよ。ところが俺は、フェンシング部で主将もやっていてさ、4年生の4月に大学の名誉をかけた重要なリーグ戦を控えていたから、就職活動に遅れをとったわけ。で、その頃、残っていたのはマスコミやメーカーくらいで。といっても、もともと商社や金融には興味がなくてね。音楽が好きだったから、レコード会社を受けてみたわけさ。で、結局全部落ちて、そのあと、広告代理店を狙おうと関係者にいろいろ話を聞いたら、TBSの営業の人を紹介してくれたの。TBSはその前の2年間(1970、71年)、新入社員を採っていなかったんだけど、今年(72年)は採るというから、試験日が電通と重なっていたけれど、俺はTBSを受けた。なんでだか(笑)

植田:運命の分かれ道ですね。

生野:最終面接で「何やりたいの?」と聞かれたとき、当時“ドラマのTBS”と言われていたから、ドラマやりたいと言ったほうがいいかなと思って「僕はドラマがやりたくてこの会社目指してやってきました」なんてとりあえず言っておいた(笑)そのとき入社した同期は一般職で7人いたかな。みんな、制作か報道志望だったけれど、俺ともうひとりが制作配属になって。そこからずっと制作。

植田:そんな狭き門だったんですか。レジェンドの始まりは、たまたまだったんですね(笑)。

生野:植田君みたいに大学で映像研究会、土井裕泰君みたいに劇団に入っていたような素養があるわけじゃない。今井夏木も役者だったでしょう。俺はたまたま入っちゃったみたいな感じだから、まずAD(助監督)を任されたとき、何やっていいか全然分からなかった。俳優を化粧室から呼んで来いと言われても、スタジオのどこに何があるかもわからない。撮影用語も「なめ」とか「引き」とか・・・まったく一体なんのことやらでさ。しかも、誰も教えてくれないんだよね。とりあえず、現場で弁当を配ったり、セットの入り口で脱いだ履物そろえたりして。照明や大道具のスタッフは怖くて、いつトンカチが天井から落ちてくるか分かんないみたい状況で(笑)。もうえらいとこに来たなと思いながらやっているうちに、だんだん現場のチームワークが見えてきたら、面白くなってきたんだよね。

植田:体育会系の生野さんだからこそ気づけたのかもしれないですね。職人の世界って縦社会で厳しいけれど、認められると自分の居場所が出てきますよね。

生野:まあね。運動部出身だから、宴会の席でケツ出して踊るとかできるわけ。それを披露したら、照明技師の親父や技術職人のおっさんたちが一気に口を利いてくれるようになった

植田:いったん輪の中に入ると、みんな結構優しいけれど、最初に認められるまでが大変ですよね。

ちなみに、生野さんが付いた、最初のドラマのプロデューサーは誰でしたか。

生野:石井ふく子さん。最初、東芝日曜劇場に配属されたのさ。

植田:日曜劇場が単発ドラマの時代ですよね。毎週新しい台本が届いて、毎週、美打ち(美術の打ち合わせ)して、毎週違う役者が演じるから、大変でしょう。

生野:その分、いろいろな名優が出入りしていておもしろかったよ。渥美清さんや先代の中村勘三郎さん、吉永小百合さんとか。

植田:高倉健さんともやっていませんでしたっけ。

生野:健さんは金ドラ「あにき」(77年)。東芝日曜劇場の思い出といえば、「肝っ玉かあさん」で有名な京塚昌子さんの楽屋に呼び込みに言ったら、メイクさんが作業中に痛くしたとかで、けんかして泣いていたのさ(笑)。そこをだな、なんとかなだめてスタジオへ連れて行ったら、ちょうど、港で別れて泣くシーンの撮影で、京塚さんがみごとに泣いた。おそらく楽屋で泣いていた涙の続きだと思うけれど、ディレクターの鴨下信一さんが、スタジオの上にある副調整室から勢いよく降りてきて「よござんしたねって今の涙」と絶賛だった(笑)たとえ役の感情で泣かなくても、違う体験を演技に生かすこともできるとは、芝居って面白い世界だなと思い知った瞬間だったよね(笑)

植田:ハッハッハ。一番下のADのみが知る真実ですよね。その後「8時だョ!全員集合」の現場に移られたんですよね。

生野:東芝〜を1年半ぐらいやった頃、オーソドックスな撮影に次第に飽きてきて、当時、アングルや照明に凝った芸術的な演出をやっていた金ドラがかっこいいと思ってさ、俺にやらせてもらえませんかと当時の制作部の部長に頼んだの。そうしたら、なぜか「8時だョ!全員集合」に回されたのよ。当時の制作部は、バラエティーも音楽番組ドラマも何もかも全部制作部で、辞令も何もなく、シフト制で、ドラマからバラエティーまで、部長の一言でその瞬間から担当になるんだよ。

闇の組織のアジトのような現場で学んだ演出の勝負感

植田:「全員集合」は、もちろん大人気番組ではあるけれども、ADにとっては鬼門の番組だったとか。

生野:「全員集合」の軍団っていうのがあって。居作昌果さん(製作総指揮)を頂点として、古谷昭綱さんという若頭(プロデューサー)がいて、その中へ入ったら、死ぬほど大変だって言われていた。

植田:鉄の軍団ですよね。

生野:上司に、まず居作さんにあいさつ行ってこいと言われて、当時、3ロビっていうのがTBSにあったことを知ってる? 3階にお茶飲むところがあって。

植田:メロンジュースがおいしかったです。

生野:3ロビに行ったら居作さんがラメの入ったストライプのジャケットを着ていて。足元は雪駄だったかな。ほかに、「ギョロナベ」という、音楽番組を仕切ってた、フランク・シナトラを呼べるようなすごい人が、ベンツでさっそうとやって来た。その人もサイドベンツの、それこそちょっと光もの入ったようなスーツをばちっと着ていて、それがさ、当時は、格好いいわけよ。居作、ギョロナベ、あと“ヤマカツ”というディレクター。頭真っ白で、杖を突いているから、“白髪鬼”なんて呼ばれていた。

植田:キャラが濃いですねえ。もうなんか闇の組織のアジトみたいじゃないですか。もうそれだけでドラマできそうですよね(笑)。

生野:そういう人たちが集まってどかっと座ってお茶を飲んでいるところへ、恐る恐るあいさつに行って。最初の仕事は、飯坂温泉だったか、そこの区民会館とか市民会館からの中継だったように覚えているんだよな。ジャングル探検みたいな回で、カトちゃん(加藤茶)が歩いてくると、草むらからワニがぴょんと出てきてまたぐらにかみつくというコントで、試しにお前やってみろと先輩に言われて、セットの下へ潜って、カトちゃんにワニを出した。それだけでもう手汗がびっしょりになっちゃって(笑)。

植田:生本番ですしね、相手は大スターだし。

生野: その後、1カ月ぐらいしたら、チーフADの高橋利明さんがディレクターになったから繰り上げでチーフADになった。

植田:大変だったでしょう。総合バラエティーショーで、しかも生ですから。コントのセットを回しながら、歌番組の楽譜をそろえないといけないし。

生野:そう。ほんと、そうなんだよ。この間「金スマ」で、亡くなった志村けんさんの特集をやっていて、いかにネタ作りが大変かという再現ドラマで、みんな机に座って考えているシーンがあったけれど、あんなふうじゃなかったよ(笑)。週2回、木曜がネタ作り、金曜がリハーサルで、Gリハっていう旧局舎の一番でかいリハーサル室でやっていた。まず稽古始まる前にGリハの3分の1ぐらいかな、そこに畳を敷くの。部屋の真ん中にスペースを開けて、畳と反対側に会議テーブルを置く。午後になるとメンバーやディレクターやボーヤがやって来て、まず畳の上でカードゲームやったりマッサージしたり、みんなで遊びだすんだよ。しばらくすると長さん(いかりや長介)が、出窓のはりだし部分にごろんと横になって、なにか考えはじめるから、担当回のディレクターは、良き、きっかけを見計らって、長さんの横に行ってネタの話をしだす。仲本(工事)さんとカトちゃんも、後半の細かいコントのコーナー。ヒゲダンスとかのネタの相談をはじめる。チーフADは後半のコントのネタ作りをまず聞いて、どういう小道具が必要かチェックしないといけない。そして、美術の西川光三さんに連絡して呼ぶ。その合間に、飯の手配とかもしながら、ネタ作りに耳を傾けていると、あるタイミングでカトちゃんたちが長さんに後半のネタを報告して、ああだこうだとやりとりがあって、じょじょに内容が固まっていく。ほどなくして、長さんが前半のコントのアイデアを発表して、そこにカトちゃんとか仲本さんもアイデアを出して、いろいろなことが決まっていくっていう感じなんだよね。

植田:長さんが全部決めて、それも口立てなんですね。

生野:口立てを聞いてAD はそのときに必要なもの全部書き出して、美術の西川さんと確認しながら、発注する。ベルトコンベヤーやフォークリフトなど大掛かりなものが必要になることもあって、長さんたちの要求にすぐ対応するには、あらかじめコネを作っておかないと間に合わないしさ。その上、パトカーが建物に突っ込むとか、とんでもないことを言い出すと、会場の許可を取らなきゃいけないなんてこともしっちゅう。順調に行けばいいけど、煮詰まるともう深夜の1時2時だよ。

植田:逆にいうと、それまでに固まるってことですか、毎週。

生野:固めないと発注が間に合わないんだもん。それから美術デザインの山田満郎さんを呼んでセットデザインを考える。

植田:舞台崩しとかも含めてですよね。

生野:満郎さんからも、こういうことはできるけど、こういうことはできないという意見が出て、また、ディレクターたちと、すり合わせをする。木曜日にそれをやって、金曜日にリハーサル。そのときに実際に小道具のカンタンなものを西川さんが作ってきて、それを使って試行錯誤して。それから立ち稽古。でも、それも最初はみんな遊んでいて。なんとなく雰囲気で、稽古やろうかみたいに突然になっていく。その空気をずっと読み続けてないといけないんだよな。

植田:地方の場合もあるわけでしょう。

生野:地方のときはさすがにそこまで無茶は言わなかったんじゃないかな。そうでもないか。まあ、土曜日は朝10時からドライ(リハーサル)。まず仕掛けの確認をして、それだけで大体午前中が終わる。そうこうしていると、あっという間に夕方6、7時になっちゃうんだよ。その間、突然またこれはいらないとか、あれはいるとかいう話になって。そうすると、居作便に頼るしかない。いつも、居作さんが一番後にワゴンみたいな車に乗って、現地に来るから、例えば洋式の便器5個が急遽必要になった場合、美術の西川さんに連絡を入れて、居作便に乗せてもらう。7時半になったら客入れ。本当は7時だけれど、7時半までは事業部が待ってくれるの。だから7時になったら、どんな状況でもリハーサルをやめる。でもその時点でうまくいってない部分も残っているんだよね。

植田:そういうときも、長さんたちが言った全ての変更点を全スタッフに伝えないといけないわけでしょう。

生野:でも常駐ADは2人しかいなくて、本番の日だけ2人ヘルプが来るのよ。

植田:それじゃ役立たないですよね、段取り分かんないなら。

生野:当日、段取り見せて、ここでタライ落とすというようなきっかけは理解してもらう。8時前にはとにかく緞帳上げなきゃいけない。って、……こんな「全員集合」の話をずっとしていいの?(笑)

植田:これだけで1回分のページになっちゃいますね。

木俣:臨場感があって面白いのでもう少し続けてください。

生野:緞帳の上げ下げってプレッシャーがハンパないから、最初はいやだったんだけど、やっていくうちにやりがいを感じるようなった。ディレクターは舞台の客席のセンターにいるから、指示できないから、緞帳をあげて公演がはじまる瞬間をコントロールするのが、舞台監督をやってる俺の心一つみたいなものなんだよね。7時50何分くらいに、長さんが「オッス」って舞台上に出てきて、客席の子どもたちに「みんな練習するよ。『8時だよ』って言ったら、『全員集合』って言うんだよ」って。やってみて「うまいね」なんて言いながら何回か「8時だよ全員集合」と練習しているうちに、タイムキーパーが「5、4、3、2、1……」とオンエアのカウントをはじめて、「8時だよ全員集合」と本番になって。俺が裏で音キューを出すとバンド(岡本章生とゲイスターズ)がチャンチャカチャンチャンチャンチャンチャン♪って演奏をはじめる。「エンヤコラヤ」っていうオープニングのあとは、盆がある小屋(劇場)の場合は盆回しするから、盆回しのキューを出す仕事もした。盆回してセット出るまでが、2分20秒なんだよ。オープニング終わってからコント始まるまで2分20秒の間に、全部仕掛けを確認して、もう一回最終確認をして、盆を回してできるようにしなきゃいけない。衣装替えもあるしで、もうてんやわんやだった。(メインのコントの大オチ〈屋台崩しなど〉までのてんやわんやの話が続く)

植田:聞いているだけでもう、プレッシャーでハゲてきそうになりますね。

生野:スリルがあったよね。

植田:「全員集合」をやっていた期間はどれくらいですか。

生野:2年半。いま話したような仕事を毎週生で2年半やっていたわけだよな。

植田:そんな体験をしていれば、ドラマの段取りなんかはへでもないですね。

生野:いや、そんなことはないけど。

植田:僕が生野さんの演出したドラマのADをやっていたとき(『ずっとあなたが好きだった』)、各方面からやっかいなことも持ち込まれてと、生野さんは全く動じずにずっと話を聞いていて、どこが問題なのかっていうところに、すっと外科医のように切り込んで、すすすすっと相手の気持ちを溶かせるみたい瞬間を何度も感じたことがありました。ああいうことを僕にはいつになったらできるんだと思って54歳になりましたけど、この前もある役者さんと話してて、説得しきれず涙目になっちゃって、俺、駄目だなと思ったんですよ(笑)。

生野:それは俺も同じだよ。

植田:いやいやいや。生野さんの涙目は見たことがないです(笑)。

生野:「全員集合」を経験したことで、ある種のちょっとした度胸と、勝負勘みたいなのは多少ついたかもしれないよね。

「八時だョ!全員集合」と「3年B組金八先生」をつなぐもの

植田:それでドラマ部に戻ったんですね。

生野:楽しかったけれど、居作さんにもう一回ドラマをやりたいとストレートに言ったの。そうしたら、ああいう人だから、よし分かったって言って、もう翌週かな、すぐにドラマ部に戻れた。

植田:男気ありますね。

生野:それから金ドラのチーフADになった。当時の主役は、女優でいうと栗原小巻さん、佐久間良子さん、吉永小百合さん、男だと田宮二郎さん、高倉健さん。当時、APがいなくて、ロケのスケジュールや、脚本家の原稿取りもやっていた。「あにき」の脚本は倉本聰さんで、富良野に家を建てたばかりの頃だったから、電話で連絡取って、ホンができたら飛行機の貨物便に乗せてもらって、俺は夜遅く羽田の貨物ターミナルに1人でポツっと待って受け取っていたり、とかさ。

植田:助監督時代の話もすごく面白いですが、そろそろチーフD の頃の話を伺わせてください。

木俣:その前にひとつだけ聞いていいですか。「3年B組」「金八先生」と土手で言うオープニングは生野さんのアイデアだそうですが、「8時だョ!全員集合」と、オープニングの「3年B組」「金八先生」ってなんとなくリズムが似ていると思うのですが、関係ないですか。

生野:いや、それビンゴなんですよ。金ドラのあと、ポーラテレビ小説「夫婦ようそろ」(78年)で演出家デビューして、次はゴールデンのドラマがやりたいと柳井さんに言ったら、金曜日8時に新しいドラマ枠ができるから、それをやれと言われたんですよ。それが「3年B組金八先生」(79年)。そこではまずADからはじめることになって、そのときにタイトルカットとオープニングは一番下のスタッフがやるものだとチーフディレクターの竹之下寛次さんと佐藤虔一さんに言われて。弱っちゃってさ。そのときに、はたと、金八の元にみんな集まるわけだから、「8時だョ!全員集合」で長さんが「8時だよ」とバストショットで言うのと同じように、「3年B組」と金八が言ったら、ぱんと引いて「金八先生」と生徒たちが集まってくるようにして、それだけじゃ保たないから、胴上げしちゃおう。それを俯瞰(ふかん)で撮ろうと思ったの。だったらロケ地は土手かなって。

植田:へーーーーー。そうなんですね。

生野:それがスタンダードになった。俺の「金八先生」での最大の誇りは、あのオープニングを俺がやって、それが30年以上も続いたっていうことかな。

植田:その原点が「全員集合」にあったとは。

木俣:リズムが似ているし、あのリズムにヒトは引きつけられると思ったんですよ。

(※「8時だヨ!全員集合」の会議や本番の様子に関しましては、居作昌果さんの著作「8時だヨ!全員集合伝説」に詳しいですが、この記事はあくまでも、当時ADをやっていた生野さんの思い出ということでこのまま掲載させていただきます)

後編 チーフ演出家編につづく

生野慈朗 Jiro Showno

1950年、兵庫県出身。慶応大学卒。1972年TBS入社。代表作に「ずっとあなたが好きだった」「男女7人夏物語」「愛していると言ってくれ」「ビューティフルライフ」「オレンジデイズ」など多数。「3年B組金八先生」の第3、4シリーズのチーフディレクター。第2シリーズで、中島みゆきの「世情」を使った演出が伝説となっている。ドラマのみならず映画監督もつとめ主な作品に「余命」「手紙」「食べる女」などがある。

植田博樹 Hiroki Ueda

1967年、兵庫県生まれ。京都大学法学部卒業後、TBS入社。ドラマ制作部のプロデューサーとして、数々のヒットドラマを手がける。代表作に「ケイゾク」「Beautiful Life」「GOOD LUCK!!」「SPEC」シリーズ、「ATARU」「安堂ロイド~A.I .knows LOVE?~」「A LIFE~愛しき人~」「IQ246~華麗なる事件簿~」「SICK‘S」などがある。

4月16日(金)から金曜ドラマ「リコカツ」放送。

フリーライター/インタビュアー/ノベライズ職人

角川書店(現KADOKAWA)で書籍編集、TBSドラマのウェブディレクター、映画や演劇のパンフレット編集などの経験を生かし、ドラマ、映画、演劇、アニメ、漫画など文化、芸術、娯楽に関する原稿、ノベライズなどを手がける。日本ペンクラブ会員。 著書『ネットと朝ドラ』『みんなの朝ドラ』『ケイゾク、SPEC、カイドク』『挑戦者たち トップアクターズ・ルポルタージュ』、ノベライズ『連続テレビ小説 なつぞら』『小説嵐電』『ちょっと思い出しただけ』『大河ドラマ どうする家康』ほか、『堤幸彦  堤っ』『庵野秀明のフタリシバイ』『蜷川幸雄 身体的物語論』の企画構成、『宮村優子 アスカライソジ」構成などがある

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