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豊臣秀吉から豊臣家と徳川家のどっちにつくかと迫られた大久保忠世は、どう答えたか?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
小田原城。(写真:イメージマート)

 会社内では派閥に分かれて争い、去就を迫られる社員がいることもあろう。天正18年(1590)の小田原合戦後、大久保忠世は豊臣秀吉から小田原城主に任じられた。その際、秀吉は忠世に豊臣家と徳川家とどっちにつくかと迫ったというが、忠世はどう答えたのだろうか。

 豊臣秀吉は小田原合戦で勝利し、負けた北条氏は滅亡した(ただし、子孫は生き残っている)。戦後、徳川家康は秀吉から江戸に行くよう命じられた。その際、秀吉は家康配下の大久保忠世を小田原城主とし、4万5千石を与えた。忠世とは、どういう人物なのか。

 忠世は、家康の父の松平広忠に仕えていた。まさしく譜代の家臣だった。広忠の没後は家康に仕え、三河一向一揆をはじめ、三方ヶ原の戦い、長篠の戦いなどに出陣し、大いに軍功を挙げた。長篠の戦いでは、織田信長からも戦いぶりを絶賛されたこともある。

 秀吉は忠世を招き、「あなたは徳川家中における、重臣の1人である。だから私は、あなたを家康殿に小田原城主にするよう勧めた。私もあなたを高く評価している」と述べたという。

 続けて秀吉は、「仮に、豊臣家と徳川家の関係が悪化し、合戦になった場合、あなたは両家のいずれに味方するのか」と問い質した。秀吉は忠世を取り立ててやったのだから、「豊臣家に味方して当然」という考えがあったように思われる。

 秀吉の問いに対して忠世は、「秀吉様から恩を受けて、私は大変うれしく思っています。しかし、大久保家は徳川家の譜代の家臣ですので、もし豊臣家と徳川家が合戦になった場合は、義を守って徳川家の味方になります」と答えたのである。

 続けて忠世は、大胆にも「仮に両家が戦ったら、徳川家が勝利するので、秀吉様の天下と関白の地位は奪われることになりましょう。秀吉様の命は、私が握っております」と答えたのである。秀吉は大笑いすると、「血気盛んなご老人だ」と述べ、酒を勧めたという。

 この話はよく知られており、『大三川志』に書かれたものである。同書は徳川家の創業史であり、享和元年(1801)に成立した。話の内容は小説じみており、史実として認めるわけにはいかない。忠世が徳川家の忠臣だったことを強調する逸話に過ぎないのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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