一族や家族を見捨てて逃亡し、「道糞」と称したという荒木村重の末路とは?
荒木村重は織田信長に登用されると、有岡城(兵庫県伊丹市)を本拠とし、西摂津を支配していたが、天正6年(1578)10月に突如として反旗を翻した。しかし、村重は信長に敗れて逃亡し、ひっそりと亡くなったので、その末路を取り上げることにしよう。
挙兵当初、村重は信長を相手に有利に戦いを進めたが、徐々に劣勢になった。翌年9月、村重は有岡城から尼崎城(兵庫県尼崎城)に移った。しばらくして有岡城が落城すると、村重の家族や家臣は捕らえられ惨殺された。それから村重は花隈城(兵庫県神戸市)に移り、粘り強く抵抗した。
天正8年(1580)7月、ついに籠っていた花隈城が落城したので、村重は子の村次らとともに兵庫津から尾道(広島県尾道市)に逃亡した(『陰徳太平記』)。一説によると、村重は三原(広島県三原市)へ逃げたとも伝わっている(『武家万代記三島海賊家軍日記』)。
こうして1年8ヵ月にわたる一連の有岡城の攻防は終結したが、その後の村重の動静はほぼわからない。いずれにしても、毛利領国に逃げたのだから、毛利氏の庇護下にあったと推測される。
天正10年(1582)6月、本能寺の変でかつての主君の信長が横死した。その翌年、村重は堺(大阪府堺市)の茶人で豪商の津田宗及が主催する茶会に出席し、「道薫」と名乗っていたことが判明する。村重は茶人として知られており、茶野の名器を多数所持していた。
「道薫」という名乗りについては、おもしろいエピソードが残っている。有岡城の戦い後、村重は毛利領国に逃亡したが、家族や一族を見捨てたことを恥じており、世捨て人として生きていこうと強く決意したという。
そこで、村重は「道糞」と名乗ったと伝わっている。「糞」の字は、普通は名前に使わないだろう。ところが、豊臣秀吉は「道薫」と名を改めるよう命じたという。ちなみに、村重が「道糞」と名乗った一次史料は今のところ存在しないので、単なる俗説と指摘されている。
こうして村重は晩年を茶人として生きたが、やはり動静には不明な点が多い。村重が堺で亡くなったのは、天正14年(1586)5月4日と伝わっている(『寛政重修諸家譜』)。
主要参考文献
天野忠幸『荒木村重』(戎光祥出版、2017年)。