Yahoo!ニュース

樋口尚文の千夜千本 第10夜  「おとぎ話みたい」(山戸結希監督)

樋口尚文映画評論家、映画監督。

時代との幸福な遭遇を全身で謳歌し、踊れているか?

「おとぎ話みたい」というインディーズ・ムービーについて知っている人はとことん知っているが、知らない人は全く知らないであろうから、簡単に註釈をほどこすと、上智大在学中に独学的に自主映画づくりを開始して瞬く間に溢れる才能で注目された山戸結希が、MOOSIC LABという若手監督と新進アーティストを組み合わせた音楽映画を制作公開するプロジェクトの一環で、おとぎ話というアーティストを題材にして監督した作品である。ちなみに、さまざまな面白い作品を輩出しているMOOSIC LABを主宰するのは、入江悠監督『SRサイタマノラッパー』や松江哲明監督『ライブテープ』などの目覚ましいインディーズ作品を配給してきたSPOTTED PRODUCTIONSの直井卓俊プロデューサーで、神聖かまってちゃんと組んだ『劇場版 神聖かまってちゃん ロックンロールは鳴り止まないっ』の音楽映画という形式へのチャレンジがMOOSIC LABの原点らしい。

山戸結希という作家も華々しいが、まずその前に直井プロデューサーの気になる作り手や企画を呼び寄せる吸引力、巻き込み力というのが凄いなと思う。直井プロデューサーの関わっている作品は大根仁監督『恋の渦』も含めてさまざまなタイプにわたるが、とにかくいずれもはずれなく面白い・・・・のと同時に何やら楽しそうである。日本映画の悪習として、メジャーであれインディーズであれ、映画づくりは何か苦行じみた側面が強く、貧しさと呪詛で自らを塗り固めるうちに若いいきのいい人材に敬遠されてダメになっていったのだ。しかし、直井プロデューサーの放つ雰囲気は、映画はもっと楽しく、またお金がなくたって身軽に撮っちゃえばいいんじゃない?と言わんとしているかに見える。これはナニゲないことであるようでいて、実は凄く日本映画史的に画期的なことなのではないか。

大昔、ビスケットのCMで「ビスケットって、おいしいものだったんですね。」という名ナレーションがあった。直井プロデューサーの作り方や見せ方は「日本映画って、楽しいものだったんですね。」と思わせる。そんなことを考えながら、山戸結希の『おとぎ話みたい』を渋谷シネクイントで、満場の20代前半くらいの男女と観ていると、急にタイムスリップ感覚に陥った。というのもちょうど30年前、自分もこの若者たちと同じ年齢で、自分も含めたPFFの入選作をまさにこの満員のシネクイント(当時の館名はSPACE PART3だったが)のスクリーンで観ていたのであった。そのスクリーンや客席も、観客の熱気も何ら当時とは変化ないように見える。だが、何かが決定的に違う。それは、劇場用のスクリーンの上映にたえうるレベルの自主映画の制作がごく手軽にできるようになったこと、逆に言えばそういった手づくりの作品を商品として公開できるインフラが劇場側にも整っているということだ。

その状況の大変化を実現したものは、当然ながらデジタル化の波である。自分が劇場用映画を監督した際も、それはデジタルの恩恵に浴して可能になったことで高価なフィルム代の壁があったら無理だったかもしれない。それなのに「映画評論家が映画作るんだから当然フィルムでしょうな」と皮肉ってくるロートル評論家がいて、思わずその暗い卑屈な頭に44S&Wマグナムをお見舞いしてやろうかと思ったが、明らかにデジタル化によってかつてなら8ミリ作家で終わっていた作り手が山戸結希のように「劇場用映画監督」になれるのが現在なのである。しかも、デジタルカメラでフィルム的なトーンを出すこともかなり可能になってきた。

そんなこんなを考えながら『おとぎ話みたい』を観すすめる。地方の町でダンサーを志すとんがった女子高生が、そういう文化を理解できる若いオトコ先生を好きになる。先生に好かれようと思って、すすめられたメルロ・ポンティの身体性の著作なんかも読んで背伸びする。でも些細ないさかいから先生への幻滅と決別に至るも、彼女はやっぱり先生が好きなのだ。といった事どもを通過しながら、彼女は心から踊れるようになってゆき、先生も心打たれたもようだ。・・・・・といったほどのささやかな物語を、怒涛のモノローグの連続と繊細なアングル、カッティングで積み重ねてゆく、ひじょうに自在で豊かな読後感の作品だ。

あまりこういうものを見慣れていない周囲の今どきの若き観客たちは相当感激していたようだ。だが、くだんのようにタイムスリップしていた私にはむしろこれは懐かしいタッチの作品であった。こんな内容も、タッチも、(ここまで巧みに出来ているものは少なくても)膨大な自主映画の世界には確かに存在した。30余年前、文芸坐のスクリーンで倉田恵子『放課後』、桂田真奈『アスファルトにねむる』といった女性監督の8ミリ作品と出会った時の新鮮さなどは典型的だ。また、かつて自主映画(60年代は個人映画とか実験映画と呼ばれた)の秀作で注目された原将人と組んで『東京戦争戦後秘話』というATG映画を作ったこともある大島渚監督のお誘いを受けて、けっこう長い期間インディペンデント・フィルムのコンペティションの審査でご一緒させていただいた。そこでいったいどのくらいの本数になるのかわからないほどの8ミリ、16ミリ作品を観つづけていると、『おとぎ話みたい』に似た主題と方法の秀作に出会う僥倖も重なった。ただし、これは全てデジタル化前夜のことであって、その優れた作品も作者も以後特に世に出ることもなかった。野に遺賢あり、というやつである。

それに、たとえばそんな中ではほんの上澄みとも言えるPFF出身の劇場用映画の監督でも、8ミリ、16ミリの時は異彩を放っても、どうしても商業作品は35ミリであらたまった内容にせざるを得なくて精彩を欠くというパターンがあったと思う。しかし今は監督がパソコンでせっせとマニアックに編集したものをそのまま大型スクリーンでコストもかけずに見せられるので、もうお作法の上でも8ミリと35ミリの間に境界を設ける必要はないのである。さらに一方でそんな映画に観客は存在するのかと古い世代は思うのであるが、シネコンの若い観客離れが深刻であるというのに、こんなインディーズ作品に注力した小さな劇場がずっと満員であったりする。大手の映画会社はこの劇場の肌感覚をもっとシリアスに感じ取るべきではないかと思うのだが、若者たちはそれだけ既成のテレビ企画にばかりあやかるような発想に辟易して劇場に足を運ばなくなっているわけである。

こんなふうにいつしか時代は急激に変わっていて、インディーズ映画を劇場用に作って見せるシステムと、直井プロデューサーのような頼りになる目利きの牽引者と、それを好んで応援する観客の誕生というのが、新しい作り手たちを輩出させる基盤になっている。さながら山戸結希は、そんなハードとソフト、そんな時代と自然児的に出会った幸運を最大限に謳歌している作家である。彼女の天分をお祭り感覚でむやみに誉めそやして流行りものにしてしまってはならないが、そんなふうにあり余るほどのメリットを手にしていながら無為に過ごす作り手も少なくなかろうに、存分に環境を活かしきっているところは何より激賞されるべきだろう。そして『おとぎ話みたい』でしたたかに輝く山戸結希には、こんな時代との恵まれた遭遇なくして詠み人知らずのまま終わった膨大な自主映画の記憶や思いの堆積が託されているという気がする。

映画評論家、映画監督。

1962年生まれ。早大政経学部卒業。映画評論家、映画監督。著作に「大島渚全映画秘蔵資料集成」(キネマ旬報映画本大賞2021第一位)「秋吉久美子 調書」「実相寺昭雄 才気の伽藍」「ロマンポルノと実録やくざ映画」「『砂の器』と『日本沈没』70年代日本の超大作映画」「黒澤明の映画術」「グッドモーニング、ゴジラ」「有馬稲子 わが愛と残酷の映画史」「女優 水野久美」「昭和の子役」ほか多数。文化庁芸術祭、芸術選奨、キネマ旬報ベスト・テン、毎日映画コンクール、日本民間放送連盟賞、藤本賞などの審査委員をつとめる。監督作品に「インターミッション」(主演:秋吉久美子)、「葬式の名人」(主演:前田敦子)。

樋口尚文の最近の記事