異国で亡くなった若い日本人騎手の仲間が、受け継いだ2つのバトンとは?
ひょんな事から異国で騎手に
「ジャパニーズジョッキーが落馬して大変みたいですよ」
ニュージーランドの騎手、ジェイソン・コレットからそんな第一報が届いた。
調べると、落ちたのは面識のある柳田泰己だった。すぐに現地で彼と共に暮らす熊谷勇斗へ連絡すると、最初に言われたのは「命は大丈夫そうです」。安堵すると共に、熊谷と相談し「意識を取り戻した際に喜んでもらえるような原稿を書こう」とキーボードを叩いた。そうやって出来上がった記事を発表しようとしたまさにその時、一転した連絡が入った。そこで慌てて原稿に手を入れて、発表した。賢明な読者には、原稿の前半と後半の展開に違和感を覚えた方もいるだろう。後半は慌てて差し替えた原稿だったのだ。
「寒いね」
そう繰り返す柳田に首を捻ったのが浅野一哉だった。1995年1月生まれの27歳。学生時代、真剣に取り組んだバスケットボールで、世界を目指し、オーストラリアへ渡った。そこで苺畑で働いた際、人生の転轍機がガチャリと音を立てた。
「畑のオーナーが馬を持っていて、乗せてもらったところ、ハマりました」
日本で騎手になるには年齢的に厳しい事を知ると、思い切って現地の競馬場を訪ね、厩舎で働かせてもらった。
2015年にはビザが切れて一旦帰国。その後の再申請がなかなか通らなかったため、行く先をニュージーランドに変更した。
「帰国していた時、ニュージーランドのリサ・オールプレス騎手がJRAの短期免許を取得して日本に来ていました。彼女と一緒にレースに乗りたかったし、騎手になれるなら国は問わなかったので、オーストラリアを諦めてニュージーランドの南島へ行きました」
南島から北島へ移動して急接近した日本人騎手
15年から南島の厩舎で働きながら騎手への道を模索した彼が、念願のデビューを果たしたのは18年6月。初勝利は更に半年近く経った11月。18/19年シーズンは8勝に止まったが、翌19/20年シーズンには快進撃を見せた。
「良いサポートをもらえたのと、自分も経験を積んだ事で沢山勝たせてもらいました」
コロナ禍で開催が減る中、積み重ねた勝ち鞍は78。南島の見習い騎手の勝利数記録を更新し、見習い騎手リーディング2位。愛称であるコジーがすっかり定着した。
そして、更なるチャンスを求め、20/21年の途中、賞金が高く、開催日数も多い北島へ移籍。ここで、同じく日本からかの地へ渡っていた2人の男と懇意になった。
「それまでは挨拶する程度でしたが、僕が北島へ渡った事で、一気に仲良くなりました」
それからその2人、当時、騎手デビューを控えていた熊谷勇斗と既にデビューしていた柳田泰己の3人での共同生活が始まった。
「とくに既に騎手だった泰己さんには良くしてもらいました。公私にわたって助けてもらう事が何度もあったし、10〜20キロを毎日走って鍛えていた真面目な姿勢にも刺激を受けました」
一つ屋根の下での生活がしばらく続いた。しかし、熊谷のデビューが具体化してきた事もあり、浅野は同じ北島内でも、他の地区へ移動した。
「日本人3人で同じ地区の馬を取り合うのも嫌だったので、別の所へ移りました」
もっともその後も皆でバーベキューをするなど、2人との交流は続いていた。
一緒に騎乗したレースで起きた悲劇
「一緒にレースに乗る事も多く、あの日もそうでした」
“あの日”8月3日、柳田は浅野のいるケンブリッジへ遠征。同じレースに騎乗した。その時の柳田の様子を浅野が振り返る。
「隣同士の枠だったのですが、ゲートの中で泰己さんが『寒い』『寒い』とずっと言っていました。そんなに寒くは感じなかったので、何故だろう?と思いました」
道中、浅野は柳田より前の位置にいた。だからアクシデントには気付かなかった。
「上がってきたらざわついていて、何かあったのかな?と思っていると、誰かが『落馬!!』と言っていました」
周囲を見ると柳田の姿がなかった。まさかと思い、レースのリプレー映像を見ると、同胞は落ちていた。
「嫌な落ち方だったので心配になり、すぐに現場の方へ駆けて行きました」
しかし、近くまで行ったところで係員に『それ以上近付いてはいけない』と制止された。
「後は無事を祈るだけでした」
しばらくして、診察した女医が戻ってきた。「決して良い状態ではない」と語る彼女の手が震えているのを見て、ただごとではないと痛感した。そして、騎手室にある柳田の荷物を見ると、沢山の御守りがあったので、それを握りしめて「助けてください」と願った。
その後、柳田は緊急入院。当方に「命は大丈夫そう」と連絡が入ったその頃、現場でより正確な情報を知る浅野は長い1日1日を過ごしていた。
「コロナ禍でお見舞いには行けず、祈る以外出来ない自分の無力さと、戦っている泰己さんを思うと、毎日、涙が出ました。競馬や調教もキャンセルしようと考えたけど、それで泰己さんが喜びはしないと思い、乗り続けました」
事故から6日後の朝も調教に騎乗していた。すると、そこに熊谷が現れた。その様子をひと目見て、悟った。
「泣きながら『身体につけられている機械のスイッチを今から切るそうです』と勇斗君が言いました」
浅野も泣いた。それを聞いた周囲にいた調教師ら、柳田を知るホースマンも皆、一斉に泣いた。そして、その数時間後、改めて訃報が届くと、再び皆の頬を涙が伝った。
受け継いだ2つのバトン
他界した2日後、現地でお通夜が執り行われ、棺に納まる柳田とようやく再会を果たした。
「顔に痣があると聞いていたけど、綺麗でした。『スリープウェル(安らかに)』と告げて、最後のお別れをしました」
そして、あの日以来、持っていた柳田の御守りを、日本から駆けつけた彼の母親に渡した。すると、彼女は礼を言った後、静かに眠る息子の手にそれを握らせた。こうして御守りは亡骸と共に翌日、荼毘に付された。
更に翌日の話だ。この日のレースに騎乗する浅野は、競馬場へ持って行く道具の中に一本の競馬用のパンツをしのばせた。柳田が騎乗していた厩舎の女性調教師から受け取ったそれは、生前の彼が使用していたモノだった。
「“YANAGIDA”と書かれたパンツをバッグに入れる時、泰己君が『そんなもの入れても幸せにはなれないよ』と話しかけて来た気がしました」
ところが亡き戦友からのそのひと言は的外れだった。そのパンツを穿いて、最初に乗ったレースで不思議な事が起きた。
「ノーチャンスと思っていた馬だけど、パンツのせいか、泰己さんが一緒に乗ってくれている気がして心強く感じると、驚くくらい最後までしっかり伸びて勝つ事が出来ました」
ゴールの瞬間、柳田の釣り仲間のニュージーランド人に言われた事を思い出し、実行した。それが右手を天に向けてのガッツポーズだった。
「『勝ったら、僕等ニュージーランドの家族がいつもついているよ!と、泰己さんに報告してくれ』って言われていたのを思い出し、やりました」
柳田と同じように赤道を越えて、苦労しながら騎手の座についた浅野。ここまで2度の重賞制覇と、準重賞は5勝したが、GⅠ勝ちはまだない。柳田もGⅠは勝てないまま逝ってしまったので、浅野には彼のなし得なかった夢のバトンを受け継いだつもりで、大願を成就していただきたい。
そして、浅野には柳田が描いていたもう1つの未来図も完成させてほしい。
話は20年の2月まで遡る。19年11月に記した当方の記事を見た地方競馬のある関係者からこちらに連絡が入った。聞くと「是非、柳田君にうちで乗ってもらいたい」との事。本人に連絡をすると話は進展。コロナ禍でなければ既に日本での騎乗を果たしていたかもしれないが、いずれにしろ現在進行中の22/23年シーズンが終わり次第、ついに日本で乗れる準備が整った。今回の事故はそんな矢先の出来事だったのだ。
GⅠ制覇と日本への逆輸入。
2つの目標を両輪に、浅野には亡き親友が描き切れなかった物語の続きを見せていただきたい。
(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)