赤道の向こうで、大絶賛された好騎乗を見せて勝利した日本人騎手の半生
東日本大震災で人生が変わる
新年早々、赤道の向こう側から嬉しいニュースが届いた。
交通網やネット等インフラの整備もあって世界が狭くなった昨今、海の向こうで活躍する日本人ホースマンは数多い。
熊谷勇斗もそんな1人。
ニュージーランドを舞台に頑張るジョッキーだ。
先述した通り世界は狭くなったと言われて久しいが、彼のここまでの道は決して平坦ではなかった。おりからのコロナ禍にも翻弄された彼の、ここまでの半生を紹介しよう。
私が初めて彼に会ったのは2019年。当時、ニュージーランドで武者修行をしていたJRA騎手の小崎綾也をマタマタ競馬場に訪ねた。調教風景を見に行くと、朝靄の中、2人の日本人が馬上から声をかけてきた。1人はその時点で既に騎手デビューをしていた柳田泰己。そしてもう1人が熊谷だった。
その晩、小崎との会食の席についてきた熊谷は言った。
「将来的には騎手になりたいです!!」
熊谷が岩手県で生まれたのは1996年3月15日だから現在25歳。
「武豊さんと同じ誕生日です!」と頬をほころばせる。
幼少時から動物好きだった彼は祖父が経営する牛の牧場を継ぐつもりでいた。そんな願いは自然の力の前にひねり潰された。2011年の事だった。
「中学の卒業式の予行練習をしていると、グラウンドが揺れました」
『地震?!』と思った次の瞬間、今まで感じた事のない大きな揺れになった。
東日本大震災だった。
「祖父の牧場は放射能に汚染され、閉場せざるをえなくなりました。それでしばらく『将来、どうしよう?』と考えたのですが、そんな時、何気なく見ていたテレビで世界に挑戦する日本馬が映し出されました」
凱旋門賞(GⅠ)に挑戦したオルフェーヴルだった。直線、抜け出したと思ったが、次の刹那ソレミアの強襲に遭い、ゴール寸前で差され2着に敗れた。
「負けたけど感動して、自分も競馬にかかわる仕事をしたいと考えるようになりました」
思い切って何のつながりもない国へ飛ぶ
高校卒業後、千葉にある馬の専門学校で本格的に乗り始めた。在学中にオーストラリアの牧場で乗る機会を得ると、卒業後、再び渡豪。そこで働いた。17年にはビザが切れて帰国したが、翌18年、今度はニュージーランドへ渡った。
「伝手はなかったので、飛び込みで厩舎を巡りました」
その時、雇ってくれたのがランス・オサリバンだった。日本ではホーリックスに騎乗してジャパンC(GⅠ)を勝った事で有名な元騎手で、後に調教師になっていった。
「ランスはニュージーランドでは伝説的な元名騎手で、乗り方は勿論、曳き方一つをとっても良いアドバイスをいただけました」
そんなボスと話しているうちに、目指すべきところが明確に見えて来た。
「騎手になりたい!!」と考えるようになったのだ。
「武豊さんと同じ誕生日という事もあり、少しでも近付ければ、と思うようになりました」
そこでランスに相談した。すると……。
「競馬学校に行かなくても実戦形式のトライアルレース(公営の能力試験のような形の実戦式調教)に20鞍以上騎乗して、調教師と採決委員が認めてくれれば見習い騎手の免許が発行されます。ランスはこれに協力してくれると言ってくれました」
コロナに翻弄されてむかえた初騎乗で
それが19年から20年になる頃の話だった。そして、そんな折り、新型コロナウィルス騒動がニュージーランドをも襲った。競馬の開催は次々と中止。厩舎の馬は放牧され、当然、トライアルレースもなくなった。挙句、ロックダウンが始まり、熊谷も移動制限の対象となってしまった。
「そんな生活が1ケ月半くらい続きました。20年の6月から仕事が再開し、7月末にようやくトライアルレースに乗れました」
念願のトライアル初騎乗はニュージーランドで最も美しいといわれるエラズリー競馬場だった。
「見ていた側から見られる側になって感動しました。大人しい馬を用意してくれた事もあり、余裕を持って楽しんで乗れました」
その後、1年近くかけて規定をクリアする22鞍に騎乗出来た。
「22鞍全て、ランスがサポートしてくれた馬で、3度1着でゴール出来ました。トライアルといえ先頭でゴールをするのは気持ち良かったです」
もっともトライアルは勝ち負けよりも指示通り乗れるかどうかが重要だった。
「調教師からは『あえて馬群の中に入れてくれ』とか『最後まで抑えたままで』とか、実戦以上に指示が出ます。その指示通りにコントロール出来た時も嬉しかったです」
こうして21年5月14日、ついに騎手デビューを果たした。
「本当はその翌日が初騎乗になる予定でした。でも、パッチプリンスという馬の調教に乗ると、ランスが褒めてくれて、急きょ1日前倒しで、デビューする事になりました」
パッチプリンスは能力こそ高いが鞭で叩くと走るのをやめようとしたり、抜け出すとソラを使ったりと、気性的に難しい馬だった。そんな馬で初めて実戦に騎乗すると、スタートからゴールまで他馬に先頭を譲らなかった。待ちに待ったデビュー戦で、初騎乗初勝利を飾ってみせたのだ。
「秘かに狙ってはいたけど、結局、枠順も良くて4キロの減量もあったから馬の能力で勝てた形でした。本来、初騎乗を予定していた翌日の馬では全くうまく乗れずに惨敗しただけに嬉しい勝利になりました」
試練を越えて騎乗再開
初騎乗初勝利はニュースになってまたたく間に騎乗依頼が舞い込むようになった。しかし、そうそう簡単にはいかなかった。その後は上手に乗れない競馬が続いた。そんな7月末のレースで抑える事が出来ず、持っていかれてしまった。
「この騎乗を最後にぱったり乗せてもらえなくなりました。ランスからも鍛え直そうと言われてしまいました」
落ち込んだが、そんな時、助けてくれたのが柳田だった。ニュージーランドでデビューした先輩騎手は熊谷のルームメイトでもあった。
「柳田さんに助けていただきながら、食生活やトレーニング法も変えて鍛え直しました」
レースに乗れない間もトライアルには騎乗して、変化を見てもらった。
すると約4ケ月後、モートゥマンという9歳馬で久しぶりに騎乗機会を得た。ところがそこでまた事件が起きた。
「乗れなかった間に体重が増えてしまい、復帰戦に騎乗出来なくなってしまいました。体重管理が出来なかった事で、再びしばらく乗せてもらえなくなると思い、落ち込みました」
ここでもまた柳田が助けてくれた。
「『これも経験だから次に活かせるようにしよう』と言ってくださり、落ち込んでいるだけではダメだと考え直しました」
そんな姿勢を見てくれていた調教師が、再び同じ馬の鞍上を任せてくれる事になった。
「こうして何とか乗せてもらえたのですが、連続で2着に惜敗してしまいました」
実績のある騎手に替えられるかと思ったが、継続して乗せてくれる事になった。すると……。
「連続で2着していたけど『馬は9歳だし、騎手はデビュー戦で1回勝っただけ。これでは勝てるわけがない』と評論家に言われ、人気になりませんでした。悔しかったし、何とか良い騎乗をしたいという気持ちで臨みました」
結果、熊谷の騎乗したモートゥマンは先頭でゴールイン。熊谷にとって15戦目で2度目の勝利となった。そして、その騎乗ぶりはレース後にランスがニュージーランドでは神格化されているジョッキーの名、すなわちO・ボッソン、S・ダイ、J・マクドナルドらの名を挙げ「馬は彼等に乗られている時くらいハッピーだっただろう」と高く評価した。
「褒め過ぎと思ったけど、ありがたかったです」
そう言うと、日本にいる小崎からも連絡があったと続けた。
「小崎君がニュージーランドにいた時は競馬の結果がどうであれ愚痴一つ言わずに一所懸命に頑張っていました。同い年だけど、尊敬出来る姿勢だと感じました。その彼から祝福してもらえ、嬉しかったです。いつか一緒のレースで乗りたいという気持ちが強くなりました」
最後に日本にいたのは20年3月というからもう2年近く前だ。「今回の勝利で騎乗依頼が増えました」と語る熊谷の凱旋帰国はまだ先になりそうだ。
(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)