Yahoo!ニュース

前任者が語る「ブローザホーンの2日間」と、宝塚記念を勝てた本当の理由とは?

平松さとしライター、フォトグラファー、リポーター、解説者
宇宙の宝塚記念(GⅠ)を制したブローザホーン(中央桃色帽)

私の都合で無理強いはさせられない

 「テレビで観戦していました」
 6月23日に京都競馬場で行われた第65回宝塚記念(GⅠ)。1人の男はその模様をテレビ観戦していたと言い、更に続けた。
 「全ての条件が向いていたので、勝てると思って見ていました」
 男の名は中野栄治氏。
 アイネスフウジンを駆って1990年の日本ダービー(GⅠ)を制した元騎手であり、今年の2月に引退するまでにトロットスター(2001年高松宮記念、スプリンターズS他)らを世に送り出した元調教師。吉岡辰弥厩舎に転厩する前のブローザホーンを管理していたのも彼だった。

調教師としてのラストランに武豊騎手と臨んだ際の中野栄治元調教師
調教師としてのラストランに武豊騎手と臨んだ際の中野栄治元調教師


 21年10月に中野厩舎からデビューしたブローザホーン。初勝利までに9戦、約7カ月を要した。
 「以前は輸送で緊張し過ぎて、パドックや馬場入場時にイライラしていました」
 そのため実力を発揮出来ないままレースが終わっていた。そんな時も中野調教師は性急に結果を求めなかった。焦らず、時間をかけて経験を増やす事により、馬が徐々に成熟していくのを待った。
 やがて、それが実を結んだ。23年3月に2勝クラスを勝つと、中野厩舎の解散直前に挑んだ日経新春杯(GⅡ)を制すまで6戦4勝。一気に重賞ウィナーの仲間入りを果たした。
 「展開の向かなかった函館記念(23年)等、負けた2戦も理由が明確でした。他は完勝続きだったので、本格化したと感じました」

不向きな展開で3着に敗れてしまった23年函館記念でのブローザホーン
不向きな展開で3着に敗れてしまった23年函館記念でのブローザホーン


 中野厩舎としてのラストランとなった日経新春杯勝ちが1月14日。厩舎の解散は3月3日だったから京都記念(GⅡ、2月11日)や中山記念(GⅡ、同25日)等、使おうと思えば使えるレースはまだあった。しかし、日経新春杯の直後に、当時の調教師は言った。
 「ブローザホーンにとっては私の厩舎が解散するとかは関係ない事です。人間の都合で馬に無理を強いるわけにはいきません」
 この采配が、転厩後もブローザホーンが元気に走れている事と無関係でないのは明白だろう。

中野栄治厩舎時代のブローザホーン
中野栄治厩舎時代のブローザホーン


条件は揃った

 宝塚記念の1週間以上前から、願っていた事があった。
 「420キロ台の小さな馬だから飛びも大きくないので、梅雨時の道悪馬場は得意です。なので、雨が降ってほしいと願い、ずっと天気予報を気にしていました」
 レース当日、テレビ画面に映し出された京都競馬場を見て、ほくそ笑んだ。更に「願いが叶ったのは馬場状態だけではありませんでした」と言った。
 「スローな流れになりそうなメンバー構成も良かったし、好きなポジションを取れる外枠になったのも好材料だと思いました。しいて言えばスタンド前のスタートだったので、ゲートの中で落ち着いていられるか?だけが心配でした」
 ただ、そこも運があったと続ける。
 「13頭立て12番枠という事で、枠内にいる時間が短くて済みます。運も味方していると感じました」

宝塚記念のパドックでのブローザホーン
宝塚記念のパドックでのブローザホーン


 また、手綱を取る菅原明良に関しては次のように語る。
 「デビューした頃からセンスのある子だと思っていました。それで乗ってもらったら勝ってくれました」
 今年のダービーデーには、東京競馬場で顔を合わせ、自然とブローザホーンの話題になった。
 「私は既に『ああ乗れ、こう乗れ』と言える立場ではないので『自信を持って乗れば大丈夫でしょう』とだけ伝えました」

「センスのある子」と中野栄治元調教師が語る菅原明良騎手
「センスのある子」と中野栄治元調教師が語る菅原明良騎手

 こうして画面越しに見守ると「堂々とした手綱捌きが目に映った」。
 「武君(1番人気ドウデュースの武豊騎手)の近くで、良いところを回っていたし、3コーナーからは抑えながら上がって行って、前を射程圏に入れていました。ずっと『良いぞ』と思って見ていたら、直線突き抜けてくれました」
 あとは独せん場だった。2着のソールオリエンスに2馬身の差をつけ、ブローザホーンは楽勝した。

GⅠ初制覇のゴール直後のブローザホーン
GⅠ初制覇のゴール直後のブローザホーン


「あの2日間」とGⅠを勝てた本当の理由とは?

 新たなGⅠホースの誕生に、中野氏はもう一つ「忘れられない思い出がある」と続けた。
 先述した通り本格化した後は6戦4勝。2度の敗戦のうち1度は函館記念である事も記したが、もう1回の黒星はゴールまで達せずに終戦していた。23年10月9日の京都大賞典(GⅡ)。ブローザホーンは心房細動で競走を中止。母オートクレールに続き、母子での心房細動となってしまった。
 「人間もそうだけど、血統というのは不思議なモノで、悪いところが似ちゃうんですよね」
 苦笑して、そう言った後「この親子は良い面も似ていましたけどね」と続けた。
 「お母さんはヴィクトリアマイル(17年)で症状が出てしまったのですが、その次のレースでは勝ちました。子供のブローザホーンも同様で、次(日経新春杯)にはすぐに勝ってくれました」
 もっとも、直ちに反撃出来たのは偶然でない事が、続く言葉から窺えた。
 「ブローザホーンが心房細動になった後、すぐには美浦へ戻しませんでした。獣医さんからは『いつ帰っても大丈夫』と言われたのですが、あえて京都競馬場に2日間置いて、火曜日になってから移動させました。続く日経新春杯を勝てたのも、その後GⅠ馬になれたのも、もしかしたらあの2日間があったからかな?なんて思っています」

中野栄治厩舎時代のブローザホーン
中野栄治厩舎時代のブローザホーン


 当時の様子を思い浮かべたのか、しみじみとそう語った後「でもね」と言うと、更に続けた。
 「でもね、なんといっても新しい厩舎の調教師や厩舎スタッフの努力、そして菅原君の好騎乗があったからこそブローザホーンはGⅠ馬になれたんですよ。吉岡調教師とは、転厩が決まった後、小倉競馬場で挨拶をさせてもらったくらいですが、ブローザホーンを見ていれば、素晴らしい調教師である事は分かります。彼等のお陰で私も嬉しい気持ちになれたんです。感謝しかありません」
 「今後がますます楽しみです」と言い、前任者は満面の笑みを見せた。

調教師時代の中野栄治氏(24年1月撮影)
調教師時代の中野栄治氏(24年1月撮影)

(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)














ライター、フォトグラファー、リポーター、解説者

競馬専門紙を経て現在はフリー。国内の競馬場やトレセンは勿論、海外の取材も精力的に行ない、98年に日本馬として初めて海外GⅠを制したシーキングザパールを始め、ほとんどの日本馬の海外GⅠ勝利に立ち会う。 武豊、C・ルメール、藤沢和雄ら多くの関係者とも懇意にしており、テレビでのリポートや解説の他、雑誌や新聞はNumber、共同通信、日本経済新聞、月刊優駿、スポーツニッポン、東京スポーツ、週刊競馬ブック等多くに寄稿。 テレビは「平松さとしの海外挑戦こぼれ話」他、著書も「栄光のジョッキー列伝」「凱旋門賞に挑んだ日本の名馬たち」「世界を制した日本の名馬たち」他多数。

平松さとしの最近の記事