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異国でデビューし、活躍するヤナギダ騎手。彼が、その姓にこだわる理由とは……。

平松さとしライター、フォトグラファー、リポーター、解説者
ニュージーランドで活躍する柳田泰己騎手(左)

留学先で知ったジョッキーという職業

 ニュージーランドで騎手デビューをして、現在、活躍している日本人がいる。

 柳田泰己という名の騎手だ。1993年11月2日生まれだから26歳になったばかり。千葉県松戸市で生まれた時、その苗字は柳田ではなかった。6歳上の姉と5歳下の妹と共に、少々複雑な家庭環境の下で育ったのだ。

 「父とソリが合わず、中学生の頃から母方の祖父母に育てられました」

 父親代わりになってくれた祖父の事を大好きだったと続ける。

 しかし、高校2年生の時、悲劇に見舞われた。その祖父が他界してしまい、深い悲しみに包まれたのだ。その後、悲しみを紛らわすようにオーストラリアへ留学した。それが彼の人生を大きく変えるターニングポイントとなった。

 「ホームステイ先が一緒になった日本人の大学生が競馬好きで、ある日、競馬場に連れて行ってもらいました」

 ブリスベンのドゥームベン競馬場で初めて競馬を見た。そして疾駆する馬を操る“人”に心を動かされた。

 「ジョッキーが格好良く見えて『自分もなりたい!!』と思いました」

 しかしこの時ですでに18歳。騎手を目指すには遅過ぎるかとも考えたが「祖父が生きていたら『頑張ってみろ』と言ってくれたと思い、目指してみる事を決心」した。

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ジョッキーへの長い道のり

 帰国後、馬に乗る方法を探した。その結果、乗馬クラブを見つけてきたが、日本でのそれは考えていた以上にお金を要する事が分かった。しかし、そんな時、助けてくれる人がいた。

 「姉が金銭面で助けてくれて、乗馬クラブへ通えました」

 初めて乗った時は「高くて怖い」と感じた。今まで経験した事のない動きにも戸惑った。それでも騎手になりたいという想いが薄れる事はなかった。母と祖母から「せめて大学を卒業してから……」と言われ、大学に入学したが、年齢的にかなりのディスアドバンテージになる事もあり、1年で中退。育成牧場で働いた。当時の事を苦笑しながら述懐する。

 「そこで馬乗りを教えてもらったのですが、下手だったので『本当に騎手になるつもり?』と言われました」

 抑え切れず暴走されたり、振り落とされたりという事も茶飯事だったが、不思議と騎手を諦める気にはならなかった。そこで育成牧場のスタッフの伝手でオーストラリアへ渡る事になった。2013年11月の事だった。

 「競走馬の面倒を見つつ、乗馬を教わる生活を3カ月ほど続けました。ただ、あまりに下手だったので14年の8月からは別の厩舎へ行く事になりました」

 その後も転厩をした。朝、調教に乗った後、昼からは英語学校。そんな生活を毎日、続けるうち、馬乗りも英語も上達していった。しかし、ビザの関係でなかなかジョッキーへの道は拓けなかった。月日だけが過ぎて行き、心が折れそうになる日もあった。そんな時、励ましてくれる人達がいた。

 「市川雄介さんら現地の日本人騎手やライダーが食事に誘ってくれるなどして、悩みを聞いてくれました」

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“ヤナギダ”姓を世界に広めたいと語る理由

 ビザの関係で16年の6月には一度帰国を余儀なくされた。その際に考えた。

 「騎手になるためのビザが取りやすいニュージーランドに矛先を変える事にしました」

 10月にはニュージーランドへ飛んだ。北島のマタマタ競馬場にある厩舎で働き出した。翌17年6月からはウェックスフォードという屋号のつく厩舎で働く事にした。騎手時代、ホーリックスでジャパンCを優勝した事もあるランス・オサリバンが調教師をする厩舎だった。

 「ランスは厳しく指導してくれながら、騎手への道を真剣に援助してくれました」

 元名騎手の後押しを受けて、10月には夢にまでみたジョッキーになる事が出来た。

 「初めてレースに騎乗出来たのは12月。マタマタ競馬場でランスの厩舎の馬でした。『嬉しい』というより緊張感の方が大きかったです」

 勝つ事は出来なかったが、師匠からは「よく乗れていた」と言葉をもらったのが嬉しかったと言う。

 初勝利は年が明けてすぐ。18年1月の事だった。

 「デビュー、3~4鞍目でした。ジュエルオブパッチという馬で最後は無我夢中に追って勝つ事が出来ました。すぐに母と祖母、それから姉にも報告をしました。皆、喜んでくれた事で嬉しさが倍増しました」

初勝利を挙げたジュエルオブパッチと。右はランス・オサリバン調教師
初勝利を挙げたジュエルオブパッチと。右はランス・オサリバン調教師

 最初のシーズンは慣れるのに精一杯という感じで終わったが、9月1日から始まった自身2シーズン目は一気に勝ち鞍を増やした。

 「相性の合う馬と出会えて、勝てるようになりました。それが良い宣伝代わりになってその後、騎乗依頼は増え、沢山勝たせてもらえました」

 シーズン途中で38勝。見習いリーディングの2位につけ、トップも狙える位置にいた。しかし、好事魔多し。調教中に逸走した馬の体とフェンスに足を挟まれて右足首を骨折。3カ月、復帰出来ないまま、シーズンは終了。結局、見習いリーディングは3位に終わった。

 「悔しかったし、焦りました。ギプスをつけて寝た切りだったので自分の中で消化も出来なかったけど、最後は次のシーズンの開幕までに間に合わそうと気持ちを入れ替えました」

 リハビリとトレーニングに励んだ結果、9月1日の新シーズン開幕に間に合った。

 「今シーズンは何としても見習いリーディングを獲りたいし、重賞も勝ちたいです」

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 冒頭で記した通り、柳田は元々、別の苗字で生まれ育った。“柳田”という姓は母方の母の苗字だった。祖父が長男ではなかったため、結婚する際に祖母の姓を継ぐ事にしたのだという。

 「そのおじいちゃん、おばあちゃんに育てられましたからね。自分はこの“ヤナギダ”姓を世界に広めたい。それは常に意識しているんです」

 祖父が存命なら現在の活躍を応援してくれるだろうと語る柳田。「“ヤナギダ”姓を世界に広めたい」という志を聞くだけで、おじいちゃんは喜んでくれている事だろう。

ニュージーランドで頑張る柳田騎手。パンツにはYANAGIDAの文字が
ニュージーランドで頑張る柳田騎手。パンツにはYANAGIDAの文字が

(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)

ライター、フォトグラファー、リポーター、解説者

競馬専門紙を経て現在はフリー。国内の競馬場やトレセンは勿論、海外の取材も精力的に行ない、98年に日本馬として初めて海外GⅠを制したシーキングザパールを始め、ほとんどの日本馬の海外GⅠ勝利に立ち会う。 武豊、C・ルメール、藤沢和雄ら多くの関係者とも懇意にしており、テレビでのリポートや解説の他、雑誌や新聞はNumber、共同通信、日本経済新聞、月刊優駿、スポーツニッポン、東京スポーツ、週刊競馬ブック等多くに寄稿。 テレビは「平松さとしの海外挑戦こぼれ話」他、著書も「栄光のジョッキー列伝」「凱旋門賞に挑んだ日本の名馬たち」「世界を制した日本の名馬たち」他多数。

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