合併しなかった村の今、村民所得は「増」。その理由とは?
1999年から始まったいわゆる「平成の大合併」。
全国に3200あった市町村の数は10年余りでおよそ1700に半減。長年親しんできた地域の呼び名も、暮らしに馴染んだ地域の形も、それぞれ大きく変わっていった。
短期間の間にこれほど急速に合併が進んだ背景には、当時、国から自治体に対して行われた「財政の特例措置」がある。施設建設のための借金を国が7割負担したり、10年間、地方交付税を増額したりと、国が自治体の財政を支援することによって合併が促されていった。
国がこの間投入した金額は18兆5千億円にのぼるという試算もある。
筆者は当時のことをよく覚えている。
2001年にNHKに入局。赴任した岡山県では、各自治体が合併するか否か、どの自治体と合併をするのか、果たして条件は折り合うのかなど、議会や首長、住民たちの声を取材し伝える機会が多かったからだ。
国からの財政措置には期限があり、せき立てられるようにして合併を選択する地域も少なくなかった。
行政効率をあげ、選択と集中で負担を減らし、住民サービスも向上させる。合併による期待が語られ、新しい庁舎や文化施設が国からのお金でつくられていく様子を見守っていた。
そうした中、2004年、岡山県の山間の村が「合併をしない」選択をして注目を集めた。
人口1400人の村、岡山県西粟倉村。
林業を中心とした中国山地の奥深いところにある小さな村。過疎高齢化、産業の衰退、50億円以上の負債など、厳しい状況の中、自主独立の道を選んだ。
当時村が行った住民アンケートでは、「合併する・やむを得ず合併する」があわせて40.53%、「合併しない・できれば合併しない」があわせて58.33%だった。
村はこのアンケートの結果に基づき、合併しないことを決めて合併協議会を離脱。西粟倉村は独自の道を歩むことを村民全員で模索する道を選んだ。
「地域をあきらめない」という意思表示だった。
当時、西粟倉村の選択は地元の新聞、テレビでは悲観的に伝えられていた。本当に大丈夫なのか、厳しい道が待っているのではないか、私自身もそうした目線で西粟倉村の様子を伝えていたこと思い出す。
村は「森から経済を生む」ことを目指し、林業再生を中心とした経済圏の創生に取り組み始めた。
あれから、18年。
今、西粟倉村はどうなっているのか。
現場を再び訪ねると、村は活気に満ちていた。
2008年から2021年までの間で、課税所得の合計が16.7%上昇。納税者数は7%、課税所得平均が9%増加するなど、人口が減少傾向にあっても納税者数が増えていることがわかった。
わたしをことばにする研究所が「先駆者会議」で取材した。
■「百年の森構想」森林から産業を作る村
これま50年育ててきた森を、ここから50年、自分たちの手で育てていく
かつて「合併しない選択」をした人口1400人の小さな村、西粟倉村。存続をかけた生き残り策は、村の93%を占める森林を、「産業」として再生させることだった。
「百年の森構想」と呼ばれるこの計画は、事業を川上と川下に分けている。
川上では、3000ヘクタールに及ぶ個人所有のそれぞれの森を組合が共同管理し、計画的に間伐や道路の整備を行って、山を再生させながら、伐採した原木を村に供給。
川下では、その原木を生かした商品開発と新規事業の育成に注力する。
切り出された木材はABCにランク分け。AB材は住宅用建材として加工し商品として全国に流通させ、C材は村内施設の電熱供給として活用される。
これによって森の資源は村内に循環、新たに様々なビジネス需要が生まれ、これまでに50社以上のベンチャー事業者が誕生、村内にあらたな稼ぎと雇用を創り出してきた。
林業事業者の青木昭浩さん。代々、この村で森と共に生きてきた。
青木さんは村が合併をしない選択をした時の様子をこう振り返る。
「今の青木秀樹村長がまだ議長とかやられていない時かな、言われたんですよ。『合併したらダメで。何もやっていないのに合併っていう選択肢はなかろうが。何かやってそれでもダメだったら合併してもええけど、何も頑張ってないのに合併っていう選択肢はなかろう』って。すごく今でも覚えています。それは今でも僕の中で支えになっています」
川上の事業にも、新たな人材が集まってきている。
東京出身、田畑直さん。5年前に西粟倉村に移住、森の管理事業を村から受け継ぐ、株式会社「百森」を創業した。
デジタルの実装でまだまだ成長の余白があると見る田畑さんの意欲は言葉の端々から伝わってくる。
「会社として考えると役場が今までしていた森林組合がやっていた仕事をやっていけば死にはしない、でも豊かにはならない。豊かになろうと思うと色々考えていかないといけないよねという感じ」
様々な世代が集い、順調に歩みを進めているように見える西粟倉村。しかし、そこには様々なジレンマも潜んでいる。
西粟倉村役場、上山隆浩地方創生特任参事は。
「自治体としたら小さな起業でも若い人たちがいて,、地域としてはいいけど、それが地域の雇用に直接結びついているかというと2000万、3000万くらいの事業規模ではその人たちだけで仕事ができてしまうので、直接の雇用拡大には繋がらない」。
村の経済をどう拡大させるのか?
西粟倉村の次の一手を、2009年から村と共に木製品の製造販売を手掛ける「西粟倉・森の学校」を設立し地域創生を手掛ける、牧大介さんに聞いた。
■目標は村民所得の上昇 分配から投資へ
牧さんは、「西粟倉・森の学校」の他に、村と連携してローカルベンチャーの支援などを行う株式会社エーゼロの代表もつとめている。
事務所をおく、廃校になった小学校を訪ねた。
かつての校庭は駐車場に。玄関で迎えてくれた牧さんの案内で校舎に入ると、各教室がここで創業した事業者たちの店舗や事務所になっていた。
渡り廊下を歩き、給食室に入ると、女性たちが作業をしていた。
村内で捕獲された鹿や猪の肉などを食用に加工。「森のジビエ」としてふるさと納税も活用した販売なども手掛けている。
「50食注文が入ったばかりなんです」
そう言って弾むような声で見せてくれたのは、ペット用の鹿肉を使ったジャーキー。人間の食肉用に使わなかった部位を、ペット用に加工して販売したところ、ふるさと納税での注文も相次いでいるという。
「この村では、捨てるものはない、全て活用するという理念で村のあらゆる資源をお金に変えていきます」と牧さんは語る。
■村の統計に新たな項目「水産」を加えられた
さらに校内を案内してもらうと、少し湿度が感じられる場所に。部屋の入り口には「農林水産業みらい基金」の掲示。
中では、うなぎの養殖も行われていた。
もともと村にはなかった、水産業。「森のうなぎ」をビジネスにしようと取り組みが始まったものの、うなぎの専門家はここにはいない。
そうした中、牧さんから指名を受けたのがエーゼロ社員の野木雄太さんだった。
全くの素人だったが、千葉県の専門学校まで半年余り修行に出向き、養殖から蒲焼まで、全てを一人で担う人材に成長。事業として軌道にのせた。
そうした甲斐あって、今では、村の統計欄に、これまでなかった「水産業」という項目が立つほどにまでなったという。
「統計欄になかった産業が加わったのはどうですか?」
「嬉しいですね。水産業が無かった中で、新しく作れて、持続的にどうにかなっているところは、一旦を担えているところはすごく嬉しいですね」
■所得向上の背景には「人材配置の最適化」が
実は、ここで働く人たちは、一人で様々な業務をこなしている。
先ほど紹介した、鹿や猪の加工。解体をするのは販売や配送の事務なども行っていた女性。子どもの頃から父親が動物を解体する様子を見て育ったことが、役に立ったという。
さらに、解体所を尋ねると、まな板と包丁でリズミカルに鹿肉を細切れにしている女性が。普段はエーゼロが手掛ける介護事業所で働いているが、仕事がない時には、こちらの加工場で賃金を得て作業をしている。
女性は「外に働きにでることはある程度歳取ったら重労働ですからね、地元で働けるのはいいこと」という。
改めて牧さんに狙いを聞いた。
「地域全体での『人の配置の最適化』を考えていかないといけない。そこはいろんな仕事があるからそこで無理するより、次はこっちどう?っていう話。いろんな会社があっていろんな仕事がある。一人一人のその時の可能性を活かしていく、選択肢を増やしていくということでもあるんですよね」
■「あえて非効率に」子育て中の女性たちが働きやすい環境を工場でも
限られた労働人口を最大限に活用するために見出した、牧さんの提案。そのノウハウは木材加工場の作業環境にも生かされている。
通常、木材加工の作業ラインは、効率を重視し一本のラインにまとめられている。しかし、ここでは、一人分の作業台に分かれ、それぞれが各々のペースで働いている。
子育て中の女性たちが、働ける時間を選んで、自由に働けるようにしているからだ。欠勤者が出でも、ラインが止まるようなことはない。
「9時-17時で働けないお母さんにとって働きやすい。むしろ、若いお母さんたちに最適化するように工場のラインが作ってある。だから若い女性がいっぱい働ける。わざと不効率に作ってあるんです」。
こうした工夫の積み重ねによって、少しずつ産業の基盤づくりを進めてきた西粟倉村。
しかし、ここにきて課題も新たに浮かび上がってきた。
■成長に限界、これまでの基盤を活かし、再び観光に舵を切る決断
今年3月に新たに村内に誕生した、レストランや木材加工場、いちごの観光農園などが入る複合施設「BASE101%」。
牧さんが代表を務める、株式会社「西粟倉・森の学校」が立ち上げた。
地元から採用された従業員、建元のぞみさんと金子岬季さん。
牧さんたちの取り組みが、彼女たちの生き方を変えた。
学校を卒業しすぐにここで働き始めた金子さん。
「全く子供の時は想像していなかった、村で就職するのは。すごく感慨深い。小さい時から知っている会社だったので、すごい育った村の木の中で自分が働いているんだなと思うと感慨深いです」 とはにかんだ。
一方で、インタビューの途中、時々、牧さんが複雑な表情を浮かべる瞬間があった。
建元さんの息子さんは、まもなく大学を卒業。地元で就職し、地域に貢献したいと考え、牧さんの会社での就職面接に挑戦している最中。母親として牧さんに「採用して欲しい」と願いを届けるものの、「採用は、採用、Uターンの人材はありがたいですが、そこはしっかり面接で適性を図らせてもらいます」と返していた。
そんなに簡単に採用できるほど、余裕はない。
建元さんは「息子の将来を考えると、夜も眠れなくなるんです。なんとか合格してほしいです。地元で働ける場所があるのは本当にありがたいので。どうにか」
地元の人が、もっともっと働けるようになるにはどうすれば良いのか。
村役場を訪ねると、上山地方創生特任参事が、村が構想を進める次の一手を話してくれた。
「今まではローカルベンチャーという若い人たちが地域にきて自分のやりたいことをやってそれをビジネス化するという「量」、起業する「量」を一つのKPIみたいになっていたんですけど、次のステップにいくための地域のありたい姿、観光事業も含めて、そこにいくためにはもう少し技術があったり、資本力もあったりのところと組んで数だけではなくて事業規模が大きく育つようなビジネスモデルが必要だよねということで、今はどちらかというとそっちをやっている」
これから、西粟倉村が産業の柱として整備を進めるのが「観光」。かつて赤字が続いた旧国民宿舎の跡地の再開発事業や大手資本と提携したあらたな観光資源開発を進める計画だという。
「だんだん自然資本を活用しながら事業をする人も増えてくるし、森林の整備も進んできて環境も良くなってきた。再生可能エネルギーも含めた新たな資源も出来てきたので、ここでもう一回観光事業に立ち返る、もう一回チャレンジする流れの中でツーリズムだとか、新宿泊施設、それをやるためのデジタル基盤だとか、そういうものが起きている」
■始まった森林資源のデジタル化
こうした流れを受け、今、川上の森林事業そのものにも変化が起きようとしている。
株式会社「百森」。田畑さんたちは林業へのデジタルの実装を進めている。
森の中での通信環境の整備や、森林環境のデータを一般に開放してビジネスに広げられないかと模索を続けている。
田畑さんは。
「森林の素材生産、丸太をどうやって作るかの話でしたけど、それ以外に山使えるかなという話をやっていきたいなと。この辺は私有財産なので一般に公開できないんですよね。それを少しずつ所有者さんと話しながらスペースマーケット、イベントスペースみたいに登録できる状況を作っていけないかということをデジタル田園都市構想の方でやっています。『ここのスペース空いてますよ』と、私有地の森林を一般社会へ情報共有していきましょうと。今すでに山林レンタルサービスが出てきていますけど、あれの西粟倉版ということで規制だとか環境的に負荷がないかとか地元の人たちに酷いことにならないかなど含めて丸っと整備しようというのが今やっていることです」
「どういう活用の仕方が?」
「正直分からないんですよね(笑)」
「村としても村の中から外に目を向けていこうというフェーズ。観光とか色々やろうとしたりとか、なのでそういうところで山っていうのがしっかりと存在感出していかないと、西粟倉って93%くらい山なので、そこが他の事業としっかりと価値を出していかないと村としての価値が低くなっちゃうのかなというところで頑張ろうって感じですかね」
山を守ってきた、青木さんたちの意識も変わった。
「近隣の林業屋もあって、・・・我々をモデルとしてやりたいと言われる方も出て来ました。初めバカにしていたのに、ありがたいことですけどね。でも我々そこで満足してはダメなので、そういう人たちよりも一歩も二歩も先を常に歩んでいかないとダメなんですよ、我々の立場は。なんでかっていうと村を守るためには歩みを止めてはいけない。人より頭一つ二つ出ていないと西粟倉じゃないと思っています」
「歩みを止めないために、デジタルなど昔だったら抵抗あるものでも受け入れられますか?」
「百ある内の百受け入れろって言われたらそれはできないかもしれないけど、でも新しいことを取り入れていかないいけないという意識は前より全然高まった」
牧さんは。
「暖気フェーズが終わって小規模企業が乱立して盛り上がってきたねと次に行くところは誰かが事業のデザインをしてプロデュースしていかないといけない。そこにいけるかどうかは今」
「役場と僕らで仕掛けていく部分もあるし、仕掛けていく人を引っ張ってくるのもあるし、外からイキのいいベンチャー企業を引っ張ってきてその人たちにチャレンジしてもらうのもある。そう意味ではセカンドステージで誰がGPになるのか、リスクを取ってこれからチャレンジしていくのかっていうのは僕らも模索している段階です」。
「地域をあきらめない」と自主独立の道を選び産業の基盤をつくってきた西粟倉村。同じように過疎高齢化、産業づくりに悩む地域にとって先駆者であり続けるため、挑戦は続いている。
山間の村で模索が始まった「地方創生×デジタル実装」の未来から目が離せない。次の10年を見守りたい。