【光る君へ】藤原定子、藤原彰子以外にもいた! 一条天皇が愛した3人の女御
大河ドラマ「光る君へ」では、藤原定子、藤原彰子がもっとも注目されている。しかし、一条天皇には、ほかに3人の女御がいたので紹介することにしよう。
◎藤原義子(974~1053)
義子は、藤原公季の娘として誕生した。公季は師輔の子で、兼家(道長の父)の弟だった。
長徳元年(995)に道隆・道兼兄弟(道長の兄)や公家らが相次いで亡くなったので、公季は大納言に昇進した。翌年の長徳の変で伊周(道隆の子)が失脚したので、さらに内大臣に昇進した。
その勢いで、公季は一条天皇に義子を入内させたが、2人の間に子は生まれなかった。これは、計算違いだったに違いない。義子が亡くなったのは、天喜元年(1053)のことである。
◎藤原元子(生没年不詳)
元子は、藤原顕光の娘として誕生した。顕光の父は、兼通(兼家の兄)である。関白だった兼通が亡くなると、主導権が兼家に移り、顕光の昇進は止まった。
公季と同じく、道隆・道兼兄弟らの死や伊周の失脚により、顕光は運良く右大臣に昇進したのである。
元子は長徳2年(997)に入内すると、その翌年には懐妊した。懐妊の報告後、弘徽殿(藤原義子の屋敷)を通り、細殿に差し掛かると、簾越しに女房らが元子らの様子を見ていた。
すると、女童が「女御様(義子)は懐妊されず、簾だけが孕んだ」と悪口を言ったという。しかし、長徳4年(998)6月に元子の腹から水だけが出てきて、子は誕生しなかったのである。
◎藤原尊子(984~1023)
尊子は、藤原道兼の娘として誕生した。道兼の父は、兼家である。長徳2年(996)、道兼は疫病に罹り没した。
尊子が一条天皇に入内したのは、2年後の長徳4年(998)のことである。残念ながら、尊子に関しては、特筆すべきことはない。
寛弘2年(1011)に一条天皇が亡くなると、その4年後の長和4年(1015)に尊子は藤原通任と再婚した。尊子と一条天皇と通任との間には、子が生まれなかった。