【戦国こぼれ話】とても重要だった法螺貝と陣鐘。戦国時代にはどう用いられていたのか
国会議員が政治資金で法螺貝を購入したと大顰蹙を買った。
しかし、戦国時代の法螺貝と陣鐘は、携帯電話などがない状況下では、情報伝達の重要な手段だった。以下、その使用法を記すことにしよう。
■法螺貝と陣鐘
合戦がはじまる合図として用いられたのが、陣鐘や法螺貝である。
この合図をもとにして、将兵らは当主のもとに馳せ参じた。陣鐘や法螺貝とは、どういうものなのだろうか。
もともと法螺貝は、密教儀式の法具だった。修験道では行者が持つ道具の一つで、山岳修行の際に猛獣を追い払うために用いたという。時代劇などでは、すっかりおなじみだ。
法螺貝の音はよく通るので、出陣の合図としては最適だったのだろう。
しかし、法螺貝を鳴らすのは非常に難しく、一定の訓練が必要だったと言われている。
神奈川県藤沢市の遊行寺には、延文元年(1356)に鋳造された銅鐘がある。
この由緒をたどると、遊行寺は伊勢宗瑞(北条早雲)と三浦道寸との交戦で全山が焼失し、銅鐘も北条氏によって小田原に持ち去られたという。
その後、銅鐘は陣鐘として用いられたが、寛永3年(1626)12月に遊行寺へ戻ってきたのである。
このように、陣鐘は寺院の鐘を転用した例が少なくない。
長野県佐久穂町の自成寺は、武田信玄が寄進したという「明応八年(1499)未十月吉日作之」の銘がある鐘を所蔵する。こちらも、陣鐘として用いられた。
長野県松代市の真田宝物館にも、「弘治三年(1557)八月日」の銘を持つ陣鐘がある。
明智光秀が坂本城(滋賀県大津市)で用いたという陣鐘は、菩提寺の西教寺(同上)に所蔵されている。
口頭や書状によって陣触れを行うのは、具体的に指示を出す点で有効だった。
しかし、急な敵の来襲などの場合は陣鐘や法螺貝が効果的だったのである。
■具体的な使用法
下総結城氏の武家家法『結城氏新法度』には、法螺貝の使用法について規定がなされている。
結城氏の居城で法螺貝が鳴った場合、下級の侍は使者を居城に遣わし、ただちに出陣しなくてはならなかった。
ちなみに、法螺貝の音が小さい場合は内部の問題であり、大きい場合は支配領域外の事件を意味していた。
このように音を聞き分け、判断することを日常的に求められていたのである。
天正3年(1575)、鉢形城(埼玉県寄居町)主の北条氏邦は、陣鐘や法螺貝が鳴った際の対応を掟として定めていた。
その内容は、法螺貝や陣鐘が鳴った場合、足軽衆らがすぐに馳せ参じるよう命じたものだ。
もし応じない者があった場合は、厳しい処分を科すばかりか、足軽衆を取りまとめる上級領主にも同じ処分を科すと決められた。
戦争という急を要する事態においては、迅速な行動が要求されたのである。
法螺貝や陣鐘を用いた事例は、天正10年(1582)2月13日付の吉川経安置文に書かれている(「吉川家文書」)。
天正9年(1581)7月、羽柴(豊臣)秀吉は5万の軍勢を率いて、鳥取城(鳥取市)に来襲した。
秀吉は鳥取城下に構を築き、川辺には乱杭(らんぐい)、逆茂木(さかもぎ)を設け、諸陣に法螺貝や陣鐘を打ち鳴らし、夜も明かりを煌々(こうこう)と照らした。
鳥取城内に籠城した将兵は、敵の威勢に驚き、ゆっくりと眠ることすらできなかったかもしれない。
この場合の法螺貝と陣鐘の使い方は、示威的な行為と言えるだろう。
■まとめ
国会議員の方は、出陣式で法螺貝を鳴らす予定だったらしいが、戦国時代ではあまり聞かない。
すでに本文で触れたとおり、口頭や書状で間に合わないようなとき、法螺貝と陣鐘はすばやく情報伝達ができる貴重なアイテムだったのだ。