【戦国こぼれ話】前田利家が加賀百万石の大大名になったのは、妻「まつ」のおかげだった
大河ドラマ『青天を衝け』で、橋本愛、吉沢亮との夫婦シーンが話題になっている。戦国時代においても大名の夫婦関係は重要で、前田利家の妻「まつ」は優れた女性として知られている。その生涯をたどってみよう。
■「まつ」のこと
天文16年(1547)、「まつ」は尾張国・織田家の弓頭である篠原主計の娘として尾張国海東郡沖ノ島(愛知県あま市)に誕生した。「まつ」の誕生から4年後に父の主計が没したため、実母は再婚した。そのため、「まつ」は前田利家の父・利昌に預けられたという。これが、利家と「まつ」との馴れ初めであった。
永禄元年(1558)、「まつ」は前田家で利家に見初められ、2人は結婚することとなった。「まつ」はまだ12歳、利家は8つ年上の20歳だった。その後、「まつ」は利家との間に、金沢藩主となる利長を筆頭として、2男9女もの子宝に恵まれた。
利家は織田家中にあったため、木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)とも親交を深めた。秀吉の妻・高台院と「まつ」は幼馴染であり、大変仲がよかったという。
のちに、利家の3女・加賀殿は、秀吉の側室となった。そして、4女・豪姫は秀吉の養女となり、宇喜多秀家のもとに嫁いでいった。このような縁は、織田家での仕官がもたらしたものであり、終生変わらないものであった。
■苦境に追い込まれた利家
利家と秀吉は、ともに織田信長から重用されるようになった。天正9年(1581一)、利家は能登七尾城主となり、大きな飛躍が期待された。しかし、翌年6月に勃発した本能寺の変で信長が横死すると、利家と「まつ」の運命は大きく変わったのである。
本能寺の変の直後、いち早く明智光秀を討ったのは秀吉である。しかし、秀吉と信長の重臣・柴田勝家との対立は決定的になり、2人の戦いは避けられなくなった。
この状況下で、当初、利家は柴田方に与していた。しかし、秀吉と勝家の両者が激突した賤ヶ岳の戦いにおいて、利家は突如として勝家を裏切り、秀吉方に寝返った。利家の土壇場の裏切りにより、秀吉は勝利をつかんだのである。
戦後、利家はなぜ勝家に与したのかを秀吉から問われ、苦しい立場に追い込まれた。その危機を救ったのが「まつ」である。「まつ」は秀吉と面会し釈明を行ったため、この危機を何とか逃れることができた。秀吉と利家は旧知であったが、この危機を乗り越えるには、「まつ」の存在が必要だったのである。
翌年、利家は金沢城(石川県金沢市)に移ると、越中国の佐々成政が不穏な動きを見せた。やがて成政が末森城(石川県宝達志水町)を攻撃すると、「まつ」は備蓄した金・銀を軍費に充てるよう進言したというエピソードが残っている。まさしく「内助の功」である。
実のところ、利家はケチで有名であった。利家は軍費を惜しみ、人を召し抱えることを控えるなどしたので、「まつ」は利家が蓄財に励むのを皮肉ったのである。その甲斐あって、利家は成政に勝利した。
■利家死後の「まつ」
慶長4年(1599)閏3月に利家が没すると、大徳寺(京都市北区)内に芳春院を建立し、自身も出家して芳春院と名乗った。当時、夫が亡くなると、妻が出家するのが慣習だった。
しかし、利家の跡を継いだ利長と徳川家康との関係が悪化したことから、翌年に「まつ」は周囲の猛反対を押し切って、進んで人質として江戸へ向かった。
以後、「まつ」は江戸へ赴いた人質の第1号として、14年間を江戸で過ごすことになる。これ以降、江戸城に藩主の妻子が送られる契機となった。
ようやく「まつ」が金沢に戻ったのは、金沢藩主・利長が亡くなった慶長19年(1614)のことであった。そして、その3年後の元和3年(1617)、「まつ」は金沢城内で亡くなったのである。享年71。その墓は金沢市野田山にあり、夫・利家の眠る大徳寺芳春院にも分骨されたという。