メキシコでのトップリーグを目指す遅咲きの「大谷世代」【平間凜太郎物語最終回】
レジェンドとの遭遇
メキシカンリーグは、MLBからはまったく独立したリーグながら、2020年までは、歴史的経緯からMLB傘下のマイナーリーグのひとつとして3Aという扱いを受けていた。それもあって、日本以上に選手の行き来は盛んである。メキシカンリーグを経由してメジャー入りを果たした選手は数えきれないほどである。というより、その圧倒的な報酬の差ゆえ、メキシコ人プロ野球選手の視線の先には常にアメリカがあると言っていい。
そんなメキシコ野球の空気を平間は入団以来ひしひしと感じていた。
「(独立リーグとの)レベルの差もそうですが、向こうの選手は、目指してるものが違いますね。集中力が違います。練習の時は適当なんです。でも、ここだって思うとこの集中力は半端なかったです。もう周囲が入る余地はありません。そこを僕は見習ってきました。また、自分が思うところと、チーム方針が合わない時もあったりするんですけど、それも承知の上で活躍して我を通すっていうところは、やっぱそうなんだなって。そういうとことを学んで、日本に僕は帰ってきたつもりです」
猛者たちの集まるリーグには、日本でもおなじみの顔や、メジャーのビッグネームの名もあった。
「楽天にいたジャフェット・アマダー、ヤクルトにいた左ピッチャー、デビッド・ハフが一緒でしたね。トレードされていきましたけど、日本ハムにいたミッチ・ライブリーもいました。WBCや東京オリンピックでドミニカ代表の一員だったジャンボ・ディアス(元レッズなど)とかともプレーしました」
対戦相手で最も印象に残っている選手も日本野球経験者だった。ユカタン・レオーネスの4番打者、ヤディル・ドレイクは2017年シーズンを日本ハムで過ごしている。キューバ出身のスラッガーは、2023年のWBCでは、デスパイネ、グラシアル(共に元ソフトバンク)らとともに代表チームに名を連ねている。
「なんだ、この打球はっ、て思いましたね。ピッチャーライナーだなって思ったら、センター前ヒットに抜けていくんですよ。そういうのを2本か3本打たれました。打球も強烈だったし、打席でのたたずまいからオーラを感じました」
その中でも、とりわけ印象に残っているのは、メキシコ人メジャーリーガーのレジェンド、ホルヘ・カントゥとの出会いだった。このシーズン限りで現役を退くことに老雄の存在は、平間の野球人生に大きな影響を及ぼした。
「もちろん、カントゥのことは知ってました。僕、もともとメジャーリーグ大好きですし、デビルレイズ(2004-07年在籍)の内野手といえばカントゥだってイメージでした」
平間がトレードを宣告されたとき、レジェンドは、この短期間しか在籍しなかった無名の日本人投手のもとに歩み寄りこう声をかけてくれた。
「お前にとってこれはマイナスじゃない。どんなことでも前向きで行け。年齢など関係ない。一番大事なのはチャレンジする姿勢なんだ」
この言葉は、今も平間の支えになっている。
変わっていった野球への取り組み方
メキシコシティでの約ひと月は、遠征以外はホテルと球場の往復の毎日だった。移動手段は地下鉄。しばらく経つと、夜に球団が雇っていた通訳と寄り道する余裕も生まれたが、試合のない日も球場に行ってトレーニングを欠かすことはなかった。
独立リーグに進んで「脱力」を会得したはずだったが、生来の「がむしゃらさ」はなかなか抜けるものではないようだった。初めての海外、しかもトップリーグでのプレーということもあり、試合があろうがなかろうが球場にやってきてトレーニングに打ち込む鬼気迫る姿の平間に釘を刺したのは、球場にいた老トレーナーだった。
「お前さんは、どうしてそんなに練習するんだい?」
続く言葉が、平間の目を覚ました。
「お前さんの練習はマウンドで後悔しないための練習にしか見えないよ。今のままじゃ、つぶれるよ」
その言葉は、社会人時代に投げかけられた言葉と同じものだった。
自分のがむしゃらな練習は不安を取り除くためだったことを改めて指摘された平間は、練習に対するアプローチを「マウンドで結果を残すため」に変えた。
その一方で、平間のひたむきな取り組みに惹かれていった選手もいた。
ベルナルド・フローレスは、アメリカからやってきた典型的なジャーニーマン選手だ。メジャーの舞台にも5度立ったこともあるが、結局勝ち星を挙げることができないまま、このシーズン、シンシナティレッズの3Aをクビになりメキシコへ流れてきた。トレーニングルームでいつも目にする平間の姿に興味をもった彼は、平間を質問攻めにした。
「彼ももすごいよく考えながら練習する選手で、『どういう練習やってるの?』とか、『何でそんなに練習するの?』、『その練習にどういう意味があるんだ?』って、めちゃくちゃ興味もってくれて聞いてきたんですよ。それで仲良くなったんです。初登板の後、オールスターブレイクに入ったんですが、その間は、ベルナルドと一緒に練習してました」
新天地、オアハカ
平間のトレード先は、メキシコシティの南西450キロの町、オアハカだった。ここにあるチーム、ゲレーロスはディブロスと同じオーナーが事実上所有している球団である。メキシコでは、運営会社さえ別にすれば、同一資本が複数の球団を所有することが認められている。そのようなわけで、ゲレーロスはディアブロスの二軍的な立ち位置で、例年、ディアブロスをお払い箱になった選手がシーズン途中に送られてくきた。
平間は、トレード宣告を受けると、球団から手渡されたチケット片手にバスに乗り込んだ。
「これが普通なんだろうなと思いました。ディアブロスが特別なんだって。結果を残せなかったんで、トレードに関してはしかたないなって思いました。とりあえず次のチーム結果残そうって気持ちでした。それだけですね」
オアハカでもメキシコシティと同じく、ホテル住まいだったが、そのランクは目に見えて落ちていた。平間は、自分が「都落ち」したんだと実感した。
幸い、チームにはすぐなじめた。ディアブロスの同僚がすでに「先乗り」していたのだ。
「先にジャンボ・ディアスとか、アストロズで投げてたフランシス・マルテスっていうピッチャーがトレードされてたんです。それで、彼らと同じドミニカ人のウレーニャっていう野手が、『日本人来たぞ』って色々声かけてくれたんですよ。『バモスって日本語で何て言うんだ?』とか内容は他愛もないことなんですけど。それに『困ったら取りあえず、いいねって言っとけ』って(笑)。それで『イイネ』っていうのが一時チームで流行っていました。とにかくオアハカはアットホームでした」
ゲレーロスは最初、平間にブルペンでの仕事を与えた。しかし、試合展開や天候などで中継ぎ登板予定が流れた。チームに合流して10日ほど経ってようやく巡ってきたのは、先発マウンドだった。ホームでのレオン・レオーネス戦。6失点を喫し、4回途中降板。要するにKOだ。これが平間のメキシコでの最後のマウンドとなった。
「ここで駄目だったら、リリースだろうなっていうのは感じていました。もうトレードされた時点で、そういうもんなんだっていうの分かってましたし」
失意のマウンドから2、3日後、球団から呼び出しを受けた瞬間に平間は全てを悟った。
帰国後、平間は高知に戻った。ファイティングドッグスに戻って再調整をした後、戦列に復帰。1月半のブランクをものともせず、3シーズン連続の投手タイトルである最多勝に輝いた。
一方、「古巣」、ディアブロスは平間の退団後も快進撃を続け、勝率首位でポストシーズンに進出した。レギュラーシーズン最終戦、平間にエールを送ったカントゥが現役最後の姿をファン前に見せた。
「プレーオフに参加できなかった悔しさは相当あります。でも、1試合駄目だったらクビになる世界だよってことも知ってましたから。だからまずは1週間このチームにいよう。その次はもう1週間いよう。そんな感じのひと月でしたね。それでオアハカではあっさりクビになりましたけど。でも、NPBの経験もない自分がメキシコのトップリーグで1勝できたっていうことは自分の中では褒めたいと思います」
高知からメキシコを思う
今シーズン、平間は高知で4年目のシーズンを送った。調子は上がらず、中継ぎ投手として防御率4.80という平凡以下の成績に終わった。勝ち星は4年目で初めてゼロに終わった。
その高知で、メキシコでのひと月半を振り返ってもらっている。平間は、開口一番、こう口にした。
「正直メキシコにいた間、1試合もいい状態の時はなかったので。コントロールも全然できてませんでした。最初は、たまたま変化球がいいとこに投げれて、相手も軌道を知らなかったから振ってくれただけでした。だから、今の自分のボールならって思うんですよね。ストレートを磨いてもう一回勝負したいっていう思いしかないです。今シーズンは、ここでも成績残してないですし、他人からみれば無理だと思われてしまうかもしんないですけど。自分のボールが一切通用しないと思ったことはないので、特に変化球なんかは。だからこそストレートをもう一回鍛えて挑戦したいです。向こうに行って、メンタル面はずいぶん強くなったと思います。ただそれだけじゃあ上を目指せないので、今は思考を変えて、パフォーマンスアップに取り組んでいます。そのためにデータを使ったり、練習内容を変えて、自分をどのような状態にすればいいのかを考えています。僕、、毎日、携帯に練習内容と食事内容とかをメモしてるんです。何をいつ食べて、どういうことを何回やってっていうのをメモしてそれを積み重ねてて…」
インタビュー前、私は、平間の数字を見て、今シーズン限りで「あがる」のかと思っていた。29歳という年齢は、野球にあきらめをつけるには遅いくらいだ。しかし、彼はきっぱり言った。もう一度挑戦すると。
メキシコでのプレーが現役を続ける糧に
メキシコでの経験は、自分にとって非常に貴重なものになったとも言う。
「だって、誰もができる経験じゃないでしょう」
メキシコでは野球だけではなく、人とのつながりの大切さも学んだと振り返る。慣れない海外暮らしの中で、様々な人から受けたサポートが彼を支えた。とりわけ、在住日本人の縁は野球の世界のいい意味での「狭さ」を感じさせた。
「メキシコシティでは、現地で働いていらっしゃる日本人の方にいろいろお世話になりました。すごい野球好きな一家で、球場にもよく来ていただきました。初登板の後、オールスターブレイクに入ったんですけど、その間に、観光名所に連れていってもらいました。その方から紹介されたのが大学の先輩で。先輩って言っても、ギリギリかぶってはいなんですけど、こんな離れたところで、専修大の野球部の先輩に出会えるとは思ってもみませんでした」
自分の野球人生はまだ終わりではないと平間は力強く宣言する。メキシコで得た経験を次に生かすのがこれからのテーマだ。
「野球に対して知らないことをつくりたくないですね。僕の場合はNPB行ったわけじゃないですし、実力もまだまだのピッチャーですけど、その中で強みをつくるためにはやっぱりそういうものをつくらない。データ(の使い方)を知ったりとか、今の近代科学の野球ってどういうふうに進歩してるかっていうのを知らないといけないですし」
現在でも、メキシカンリーグの動向はチェックし、チームメイトとも連絡を取り合っている。
「ディアブロス、ゲレーロスどっちも成績は覗きますよ。今シーズンは、ベルナルドがゲレーロスにいるんで、片言の英語で連絡しています」
トップリーグを目指す目標は変わることはない。その目標がなくなった時が野球を辞める時だと言う。年齢は関係ない、独立リーグで完全燃焼するつもりは全くないときっぱり言い放った平間は、2023年シーズン終了後、高知ファイティングドッグスのユニフォームを脱いだ。そして、メキシコ野球復帰を果たしたのだ。SNSに流したピッチングが、ディブロスフロントの目に留まり、メキシカンリーグが実施する冬の教育リーグに招待されたのだ。ギャラは夏のリーグの半分以下の月2000ドルだったが、そんなことは関係ない。平間は再びディアブロスのユニフォームに袖を通した。ここで結果を残せば、メキシカンリーグのロースターにも残れるかもしれないし、その前にこの国で実力ナンバーワンのリーグ、メキシカン・パシフィックリーグからのオファーもあるかもしれない。実際、平間は昨年、このリーグのドラフトで指名もされている。このメキシコのウィンターリーグは、チーム数が少なく、夏シーズンにアメリカでプレーする選手も参加するため、太平洋岸の地方リーグでありながら、そのプレーレベルは、メキシカンリーグより高い。
平間は、教育リーグで6試合に登板、2勝1敗、防御率1.69という数字を残した。奪三振数は、投球イニング数を上回る36を数えた。
帰国後、メキシカン・パシフィックリーグからオファーが舞い込んだが、時すでに遅しだった。それでも、そういう話があったということは、海の向こうで平間の評価が高まっているということだろう。
来シーズン、日本の野球ファンの視線は、海の向こうのドジャースタジアムに注がれることだろう。しかし、ロサンゼルスのはるか南の「太陽の国」のプロ野球の舞台に、あの大谷翔平と同い年の侍が挑戦しようとしていることも知っていて欲しい。
(了)