一条天皇から譲位され、新しい天皇になった三条天皇とはどういう人物だったのか?
今回の大河ドラマ「光る君へ」では、三条天皇が一条天皇から譲位され、新しい天皇になった場面が描かれていた。三条天皇がどんな人物だったのか考えてみよう。
三条天皇が冷泉天皇の第二皇子として誕生したのは、天延4年(976)のことである。第一皇子は花山天皇であるが、寛弘5年(1008)に亡くなった。藤原兼家(道長の父)の謀略により、退位したことでも知られている。
一説によると、冷泉天皇は奇行が目立ったとされており、そのエピソードが数多く伝わっている。それは花山天皇も同じことで、とりわけ女性関係のエピソードが多い。三条天皇には、そのような話があまりない。
寛和2年(986)、花山天皇が退位したので、一条天皇(円融天皇の子)が即位した。当時、まだ数え歳で7歳だった。その際には、兼家が摂政として支えることになったのである。
一条天皇が即位したので、皇太子には4歳年上の居貞親王(のちの三条天皇)が立てられた。天皇よりも皇太子の居貞親王が4歳年上だったので、「さかさの儲けの君」と称されたのである。
兼家は冷泉、円融の両天皇に娘を入内させていた。つまり、兼家は一条天皇を天皇にすることで摂政として権勢を振るい、一方で居貞親王を皇太子にすることで、盤石な体制を築いたといえよう。
居貞親王に入内したのは、藤原娍子(済時の娘)である。2人の間には、敦明親王が誕生した。その後、居貞親王に入内したのが、18歳年下の藤原妍子(道長の娘)だった。これは、道長による将来の布石だった。
寛弘8年(1011)に一条天皇が亡くなる前、居貞親王に譲位した。こうして三条天皇が即位し、皇太子には敦成親王(のちの後一条天皇)が立てられたのである。とはいえ、三条天皇には不幸が続いた。
妍子との間には、ついに後継者たる男子が誕生しなかった。しかも、三条天皇は娍子を皇后としたので、道長との対立が決定的になった。おまけに三条天皇は、目の病気に罹ってしまったのである。
以降、道長は病気を理由に三条天皇に譲位を迫ったので、三条天皇は敦明親王の立太子を条件として、敦成親王(のちの後一条天皇)に皇位を譲った。しかし、敦明親王の立太子は実現しなかったのである。