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ビル・ゲイツ氏が日本に期待すること

石田雅彦科学ジャーナリスト
(写真:ロイター/アフロ)

ビル・ゲイツ氏が来日した目的とは

よく「医は仁術」などと言うが、医薬関係者や医療機関、製薬企業も利益を得なければ経営が成り立たない。少数の患者しかいない難病治療薬や貧困な開発途上国などに必要なワクチンなどの開発が遅れたりなかなか普及したりしない主な理由は、こうした経済的なことも大きい。

衛生的な環境で健康に生きていくことは、当然、先進国や富裕層だけの権利ではない。しかし、開発途上国や貧しい人の多くは、この権利を享受できていないのが現実だ。

一方、エボラ出血熱などのように途上国で蔓延した感染症が、先進国も脅かすようにもなってきている。途上国の保健衛生を充実させることは、先進国の国民にとっても益があることだが、これも経済的な理由でなかなか前進しない。

ところで、クリスマス休暇の直前、来日したビル・ゲイツ氏が各地で精力的に活動し、自身の考えを強くアピールした。例年クリスマスの前後に長期休暇を取る同氏は、この季節にあまりあちこち出かけることは珍しい。だが、今回の来日は違った。同氏の理念を実現するための、またとない機会になる、と判断したからだろう。

ビル・ゲイツ氏は言うまでもなくMicrosoft社の創業者だが、今では社会事業家としてメリンダ夫人や大富豪のウォーレン・バフェット氏らとともにビル&メリンダ・ゲイツ財団(Bill & Melinda Gates Foundation)を運営し、途上国の自立支援や国際的な健康衛生の推進活動、貧困飢餓対策支援、各種技術研究開発へのパートナー活動、医療や教育の充実、クリーンエネルギー開発などの社会貢献活動などをしている。同氏は、全財産の95%を社会へ還元するために寄付する、と個人的に「富の再配分」を誓約していることでも有名だ。

同氏が今回来日した主な目的は、12月16日に東京で開かれた国際会議「ユニバーサル・ヘルス・カバレッジ(UHC、UNIVERSAL HEALTH COVERAGE)」へ出席するためだった。UHCのキャンペーンは、WHOや世界銀行、各国政府、ロックフェラー財団、大学の研究機関など官民がバックアップする国際的な会議だが、12月の会議は外務省や厚労省、国際協力機構(JICA)などが共催した。

UHCはユニバーサル・ヘルス・ケア(UNIVERSAL HEALTH CARE)とほぼ同義で「世界中の全ての人が生涯を通じて必要な時に基礎的な保健サービスを負担可能な費用で受けられること」とされている。ドメスティックな国規模の概念では、日本の国民皆保険制度など強制的な保険制度なども含む。ただ、日本の医療制度でも問題になっているとおり、運営にかかる費用と原資をどうするか、誰が誰をカバーするか、どこまでカバーするか、などの問題も多い。

ビル&メリンダ・ゲイツ財団とJICAの関係とは

ビル・ゲイツ氏は、彼の財団を通じてUHCの理念に深く関与し、様々な活動をしている。グローバルファンドである「世界エイズ・結核・マラリア対策基金」や「グローバルヘルス技術振興基金(GHIT)」などへ寄付し、開発途上国や貧困層などを支援し、すくいあげるために飛び回っている、というわけだ。

もちろん、こうした米国流の慈善団体や寄付については、資産逃避や税金逃れ、ファンドを通じた利益確保ではないか、などの疑念や批判もある。ただ、金を持っている者がその金を利用して慈善事業を興すことで、事業のパートナーも事業の対象者である途上国や貧困者もともに利益を得ているのは事実だ。もちろん単純な「聖人君子」とは思わないが、また一説によれば、ビル・ゲイツ氏の場合、自身の財産を本当に慈善事業で使い切ろうとしているらしい。

12月に開かれたUHCの国際会議の共催者に国際協力機構(JICA、Japan International Cooperation Agency)がある。JICAは日本政府の開発援助(ODA)を実質的に実行する機関だ。2003(平成15)年の設立から、とりわけ開発途上国に対する教育や資源・エネルギー、保健衛生などの支援に取り組んできた。ちなみにJICAの前身は国際協力事業団だ。

ビル&メリンダ・ゲイツ財団とJICAの間には「ローン・コンバージョン(loan conversion scheme)」という方法での事業協力がある。これは、JICAが開発途上国へ円借款契約する場合、JICAと業務協力協定を結んでいる同財団がその返済を肩代わりする、というものだ。

2011年にJICAは、パキスタンのポリオ根絶のために同財団とパートナーシップを組んだ。約50億円の円借款の債務返済に民間資金を活用する事例は初めてのことだったらしい。

ポリオ(Polio、急性灰白髄炎)は、ポリオウイルスによる感染症で、下肢などに弛緩性の麻痺が残る病気だ。5歳以下の小児がかかりやすいので昔は小児麻痺と呼ばれていたが、成人にもポリオウイルスは感染する。

日本におけるポリオウイルスは、ワクチンの予防接種などが奏功して1980(昭和55)年に野生株が撲滅され、世界的にも各国で次第に根絶され、最後にパキスタン、ナイジェリア、アフガニスタンといういわゆる「常住3カ国(インドはすでに根絶)」にまだポリオ発生が残っている。これらはイスラム国であり、西洋文明に対する宗教的敵対心や迷信などが障害になり、ポリオワクチン治療の医療関係者が襲撃されて殺害されたりしてきたようだ。ビル・ゲイツ氏は米国人であり、いくらこれらイスラム国へ支援しようと考えても抵抗がある。そこでイスラム国との間に障壁が少ないJICAと協力して支援しよう、と考えた。

JICAとビル&メリンダ・ゲイツ財団は、まずパキスタン政府に対して円借款でポリオ根絶へのインセンティブを引き出し、債務返済についても「ローン・コンバージョン」により支援事業を実現させた。そして2014年には、同じ手法でナイジェリア連邦との間で、ポリオ・ワクチン接種による支援事業として約82億円を上限とする円借款契約を調印した。

冒頭で述べたように、ポリオウイルス(野生株)はすでに日本などの先進諸国や常住3カ国以外ではなくなっている。しかし、これらにまだ残っているということは、いつか再び感染が広がらないとも限らない潜在的なリスクだ。たとえば、結核や梅毒は、抗生剤の登場でかなり制圧された印象のある感染症だが、近年、再流行して問題になっている。完全に撲滅根絶しなければ、いつまた感染し始めるかわからない。

日本発「母子健康手帳」が世界へ広がる

ところでユニバーサル・ヘルス・カバレッジ(ケア、UHC)の一つの考え方として、母子健康手帳(母子手帳)という制度もある。これは戦前の「産めよ育てよ」の施策がベースになり、戦後にできた児童福祉法を根拠に次第に整備され、妊産婦の自発的な健康管理を啓発するために作られた。母子手帳は、妊娠が判明した時点で市区町村へ提出する妊娠届けをもとに市区村長から渡される。

この制度は、国籍とは無関係に公布され、横浜市や浜松市など外国人居住者の多い市区町村では外国語版もある。横浜市の場合、英語、中国語、ハングル、スペイン語、ポルトガル語、ベトナム語の母子健康手帳があり、京田辺市にはタガログ語版やインドネシア語版、タイ語版もあるようだ。また、各自治体では点字版も用意している。

母子健康手帳には出産までの健康状態や出産時のアドバイスが紹介され、出産前後の記録記入項目、出産後の予防接種や新生児の健康成長状態などを記録することができる。また、子どもが海外留学の際、留学先の国から予防接種の履歴提出を要求されるが、母子健康手帳に記録しておいたので助かった、という事例も多い。

市区町村から渡される母子健康手帳には、妊婦健康診査助成券がついていたり同時に交付される。これは自治体が保険適用されない検診費用の一部を公費で補助するというもので、母子健康手帳はこの助成券とセットになっている。そのため、母子健康手帳を受け取らない妊婦は少ないようだ。

日本に特徴的な母子健康手帳は、JICAが中心になって世界へ広めようとしている。最初はインドネシアで普及し、その後、メキシコやパレスチナ(アラビア語版)、ベトナムへ紹介した。各国の保健医療関係政府機関が中心になり、それぞれの国や地域の事情に合わせた内容に改訂して作っている。母子健康手帳を採用した国では、母子の健康保全に少なからず役立っているようだ。

日本の関与に期待するゲイツ氏

ところで、ビル・ゲイツ氏は同氏のブログで2015年の世界を俯瞰した感想で、保健衛生についてもいくつか述べている。ポリオはアフリカで制圧され、残されているのはアフガニスタンとパキスタンだけだということ。エイズ(HIV)の治療が進んでいること。安価なロタウイルスワクチンが提供されたこと。ナイジェリアがエボラウイルスを撃退しつつあり、その背景にはポリオ根絶のプロジェクトインフラが大きな役割を果たしたこと。ほかにもあるが、2015年のノーベル医学生理学賞が日本人研究者、大村智・北里大特別栄誉教授の「寄生虫による感染症とマラリアの新治療法の発見」に与えられたことを喜んでいる。

ビル・ゲイツ氏は毎年、年次書簡を発表しているが、2015年度版では、世界の健康や教育、環境などが大きく改善された成果を紹介し、今後の15年についての克服すべき課題について述べている。ユニバーサル・ヘルス・カバレッジ(ケア、UHC)では、限られた資金や資源をどう利用し、各国政府や民間機関、NGOなどがどう連携するかが重要になっている。先進諸国内でも経済格差が広がり、グローバルでも南北問題も放置されたままだ。

12月に来日した際にも同氏は、世界の子どもたちの命を守るため、日本の科学技術や知見、質の高い研究者たちの存在、日本政府のリーダーシップなどに対する期待を強く訴えた。母子健康手帳に代表される日本独特の制度にも当然、熱いまなざしを注いでいるのに違いない。

科学ジャーナリスト

いしだまさひこ:北海道出身。法政大学経済学部卒業、横浜市立大学大学院医学研究科修士課程修了、医科学修士。近代映画社から独立後、醍醐味エンタープライズ(出版企画制作)設立。紙媒体の商業誌編集長などを経験。日本医学ジャーナリスト協会会員。水中遺物探索学会主宰。サイエンス系の単著に『恐竜大接近』(監修:小畠郁生)『遺伝子・ゲノム最前線』(監修:和田昭允)『ロボット・テクノロジーよ、日本を救え』など、人文系単著に『季節の実用語』『沈船「お宝」伝説』『おんな城主 井伊直虎』など、出版プロデュースに『料理の鉄人』『お化け屋敷で科学する!』『新型タバコの本当のリスク』(著者:田淵貴大)などがある。

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