「過去よりも未来」…北朝鮮との対話を歓迎する朝鮮戦争戦死者の遺族たち
6日後に迫った米朝首脳会談。スムーズに進む場合に韓国が合流し、南北米による朝鮮戦争の終戦宣言まであり得るとされる中、朝鮮戦争(50〜53年)で家族や親類を失った遺族たちの想いを聞いた。
顕忠日とは
6月6日は韓国で「顕忠日」と呼ばれる公休日だ。国のために殉じた人々(殉国先烈)と、戦没した将兵(護国英霊)を追悼する日とされる。
この中には、日本による植民地統治時代に抗日闘争を行った人物に始まり、朝鮮戦争(1950〜53年)やベトナム戦争(派兵期間64年〜73年)、延坪海戦(99年、02年)や哨戒艦「天安」撃沈事件(10年)の戦死者、さらに殉職した消防官や警察官などが含まれる。
国家への功を認められた人々は、ソウルと大田(テジョン)市内にある国立顕忠院に埋葬(安葬)される。毎年6月6日は顕忠院で大規模な記念行事が行われる一方、遺された家族・同僚など大勢が顕忠院を訪れ、故人を偲ぶ。今年は大田顕忠院の行事に文在寅大統領が参席した。
朝鮮戦争停戦から65年
6日午前、筆者はソウル市銅雀区にある国立ソウル顕忠院を訪れた。筆者が到着した午前9時には既に、広大な敷地内はたくさんの訪問客でごった返していた。30度近い炎天下の中、縁故のある墓碑の前にゴザを敷き、食べ物を供え語り合う人々の姿があちこちで目についた。
1954年に国立墓地として設立され、その後敷地や安葬者を増やしていった国立ソウル顕忠院は、歴代大統領、大韓民国臨時政府、愛国志士、国家有功者、将軍、警察など大きくは9つ、細かくは56の墓域に分かれている。筆者は、朝鮮戦争戦没者が多く埋葬されている墓域に向かった。
前に挙げた通り、顕忠院には様々な理由と時期に命を落とした人が安葬されている。だが筆者は特に、朝鮮戦争に関わりのある人々の声が聞きたかった。停戦から65年が経ち終戦が見える中、家族史と歴史にどう折り合いをつけているのか。
なお、朝鮮戦争とは1950年6月25日に北朝鮮が韓国に侵入することで始まった戦争。国連軍と中国が参戦し、1953年7月27日に休戦協定が結ばれるまで続いた。戦闘期間中、軍属・一般人を含めると300万人以上の死者を出し、その数倍におよぶ南北離散家族を生んだ。休戦状態のまま現在に至る。
「終戦したら故郷に」
まず声をかけたのは、誰もいない墓域でひっそりと座る老夫婦だった。夫婦ともに名乗ることをはばかったが、聞くと、現在75歳だという男性が6歳だった1951年に、父が戦死していた。
男性は、「毎年、顕忠日になるとここに来るが、来る度に訪れる人が減っている。3〜4年前からはこの区域には誰も来なくなった。自分が死んだ後には誰も来なくなるだろう。今が終戦できる最後の機会だ」と重い口を開いた。
故郷は北朝鮮・黄海北道の沙里院(サリウォン)市。「父を早くに失い、生きていくのがとても大変だった」と明かす。
男性はさらに「金正恩に対して何か特別な感情がある訳ではない。同じ民族同士で争って生きていくのは心が痛むし、国同士の話なので終戦に向かってほしい」と述べる一方、「ここに眠っている人々が誇らしい。この人達がいなければ今の自由が無かったかもしれない」と感慨深げに語った。
そして「終戦してくれたら、故郷を訪れてみたい」と語気を強めた。隣で女性が静かにうなずきつつ、「元気なうちに子供も孫も連れていきたい」と笑顔で付け加えた。
続いて、寡黙にたたずむ年配の男性に声をかけた。モク・ヨンテクさんは85歳。朝鮮戦争さなかの1952年に、当時空軍に所属していた弟が戦死した。モクさんも陸軍で戦争をたたかった。「私は参戦勇士(韓国で朝鮮戦争参戦者をこう呼ぶ)だよ」と静かに笑った。
昨今の情勢について聞くと、「今の状況を受け入れている。過去は過去だ。過去に足を取られて国の発展に遅延があってはいけない。後代までお互いを仇と思ってはいけない。これからは全部忘れるべきだ」と噛みしめるように語った。故郷は韓国だが、「往来ができるならば、ぜひ北朝鮮に行ってみたい」とのことだった。
「北も南も同胞だ」
さらに顕忠院を奥に進むと、ベトナム戦争での戦死者の墓域と、朝鮮戦争でのそれとが隣り合う区域に出た。墓石の裏に戦死した日付があるのですぐに分かる。とはいえ、日付を見る必要もない。ベトナム戦争の墓域の方が、訪問者が圧倒的に多い。遺された縁故者の数に大きな差があるのだろう。
その中で、ひと際目立つ一団がいた。10人ほどが車座になって、酒を片手に食事を取っている。声をかけると歓迎され、すぐに梨を差し出される。焼酎も勧められたが取材があるため泣く泣く断った。
チャン・ホンジェさんは86歳。18歳の時の1950年に、江原道揚口(ヤング)郡で当時25歳だった従兄弟チャン・ラッカさんが戦死した。長く従兄弟を見つけられなかったが、72年に偶然、ここに安葬されていることが分かり、それから毎年欠かさず来ているとのことだ。「最高で35人が来てチェサ(祭祀、法事)を行ったことがある」と笑った。
一方で、高麗大学を卒業し、郵便局ではたらくエリートだった従兄弟が強制徴用されたことへの怒りは隠さなかった。朝鮮戦争の終戦については「今は状況を静かに、心配しながら見守っている」としながらも、「北も南も同胞だ。同じ民族同士で争っているのは世界で我々だけだ。(両国は)うまくやっていると思う」と語った。周囲の男性たちも一様にうなずいていた。
「南北会談は秘密主義」
さらに進むと、墓碑に寄り掛かり座り込む夫婦を見つけた。日傘を差し半ば放心したように筆者を見る夫(83歳)は、どなたが亡くなったのかという質問に、「兄が1951年、18歳で戦死した」と短く答えた。場所を訪ねると「墓石に書いてある」と言うので見ると、済州島の漢拏山とあった。
朝鮮戦争当時、北朝鮮軍は済州島に上陸していない。このため、「済州4.3事件」と関連し亡くなったのか聞くと「共匪にやられた」と鋭く答え、後は口を開かなかった。当時、「アカ」のレッテルを貼る政府側の弾圧に耐えかね、漢拏山に「入山」した島民武装隊との間に何があったのか、それ以上聞くことはできなかった。
なお、「済州4.3事件」については以下の記事を参考されたい。
「済州4.3事件」70周年を迎えた韓国の今 -国家による暴力と分断を越えて
https://news.yahoo.co.jp/byline/seodaegyo/20180404-00083567
代わりに説明してくれたのは73歳の妻の方だった。南北対話について「たくさんの人が北朝鮮との戦争で亡くなった。彼らを代弁することはできないが、一方的な形で進んでいく今の対話には違和感がある」と不満を露わにした。
また、「自分たちのような年寄りは、突然の変化を受け入れられない。私達は被害者で、その歴史までは変えることはできない」とし、「南北会談はあまりにも秘密主義で行われており、南北が何を話しているのか十分に公開されない。国の話でなく、個人の話のように思える時がある」と力を込めた。
「争いを煽る政治家は退場を」
少し離れた所に、若い一団がいた。キム・ミンス(41)さん、そしてイ・ミング(46)さん家族は、1951年に戦死したキムさんの叔父の墓碑の前で静かに果物を食べていた。
「毎年この日に訪れる」というキムさんに続き、朝鮮半島情勢についてイさんは「今回の対話の雰囲気は非常に良いものに見える。こんな機会はこれまでになかった。敵対的な関係が無くなればと歓迎している」と明るく語り、筆者の手にみかんを持たせるのだった。
次に、ポツンと一人で墓碑を清める男性の下に向かった。68歳のパク・ジンスさんは、やはり叔父を1952年に失っている。最激戦区の一つであった江原道金化地区で起きた戦闘で亡くなったことが墓碑に刻まれていた。
息子は韓国軍の将校だと自己紹介したパクさんは、朝鮮半島の対話局面について「進むべき道を進んでいる。遅すぎたとすら思える。後代のことを考えるのならば、南北協力をしなければならない」と朗らかに語った。
さらに、「分断で既得権を得ている政治家たち、争いを煽る政治家たちのせいで時間がかかった。そういう政治家は一刻も早く退場してほしい」と語気を強めた。朝鮮戦争で亡くなった人は今後どう位置づけられるのかと聞くと、「簡単には言えないが、叔父さんも今は穏やかな気持ちで休んでいるのではないかと思う」と遠くを見ながら答えた。
「前に進むことだけを考えるべき」
最後に話を聞いたのは、賑やかに議論をしている一団だった。話をしてくれたのは87歳のペク・ナミョンさん。4人きょうだいの三男で、兄二人を朝鮮戦争で失っていた。長兄は学徒出陣したがその後完全に音信普通になり、顕忠院には4歳年上の次兄ペク・ナムサンさんが安葬されている。51年に元山で戦死した海兵隊1期生だという。
本人も7年間、将校として江原道の最前線で勤務したというペクさんは、「昔の話をいつまでもひきずっていてはいけない。過去を清算するときがきた。南北は今後どうしていくかについて話すべきだ。ずっと背を向けて生きていくことはできない」と、対話が盛んな昨今の朝鮮半島情勢を肯定的にとらえていた。
一方、北朝鮮の金正恩委員長への評価は揺れているようだった。「金正恩は良い決断をしていると思う。だが今後、対話の裏で核開発をしていた金正日のようにならないか心配だ。5月に習近平に会って以降、態度に変化があったように思えるから尚更だ」と定まらない様子で語った。
だが、「朝鮮戦争の死者は今後どうなるのか、どんな意味を持つと思うか」という筆者の質問には、「死んだ人に意味を求めてはならない。そういう気持ちはこれからもう、捨てていかなければならない。さもなければ過去にこだわる保守派の論法になってしまう。前に進むことだけを考えていくべきだ」と、はっきりと主張した。
朝鮮戦争終戦は「時代の要求」
インタビュー前には、朝鮮戦争の戦死者遺族ということで、スピーディに進む対話局面に対し、強い反応が返ってくるものと考えていた。だが実際には、見てきたように朝鮮半島の緊張緩和や、朝鮮半島終戦を強く支持する声の方が大きかった。
ベトナム戦争での戦没者墓域に比べ、閑散とした朝鮮戦争戦没者墓域。80歳を超える人々の言葉の端々からは、「今が最後のチャンス」という気持ちが強く伝わってきた。
もちろん、延坪海戦や天安艦撃沈事件の遺族が持つ北朝鮮政府への声はまた、違ったものになるだろう。
だが昨年来、南北「接境」地域を訪ね歩き地域住民の声を集めてきた筆者にとっては、「朝鮮戦争の終戦はまさに時代の要求である」という確信にまた一歩近づく、貴重な取材となった。