【ライヴ評】地政学的影響を見事にプログラム化したニューイヤーコンサートが正月ボケを吹き飛ばしてくれた
“すごろく”であるならば「振り出しに戻る」というのはなかなかに萎えるものなのだけれど、「年が改まる」と称して1月1日という繰り返しをすることについての抵抗は極めて少ないばかりか、それを「めでたい」とまで感じる精神構造について批判的に論じようにも、肯定している自分がいることに気づいていたりするから厄介だ。
とはいえ、友人や家族と連れだって初詣なる儀式めいたイヴェントを敢行することにもだいぶ飽きて、最近ではとんと正月らしき行事のまねごとにも手を出さなくなったのだけれど、その代わりに「ニューイヤーコンサート」というイヴェントは待ち遠しく思うようになったりしている。
そうなったきっかけはなにかあったのかと思い出してみると、TVで中継していたウィーンフィルのニューイヤーコンサートを着飾った観客だけでなく演奏者も楽しんでいる様子を見て、自分が氏神の祭りで神輿を担いでいたときの高揚感に近いものがあるのではないかと思い当たったことが関係しているのかもしれない。
どちらかというと正月早々に窮屈なクラシック演奏会は気が進まなかったタイプであったのに、今年のニューイヤーコンサートはどんな趣向だろうかと気にかけるようになったのには、そんな心の移り変わりが関係しているようだ。
東京文化会館の2020年ニューイヤーコンサート
日本でも各地でニューイヤーコンサートは行なわれているようだが、ボクはここ数年、東京文化会館に招いていただいて、「生演奏取材の仕事始め」をさせてもらっている。
2020年は、外山雄三指揮による東京都交響楽団にピアノの横山幸雄を迎えるといったアウトライン。
外山雄三は1931年(昭和6年)生まれ。NHK交響楽団正指揮者、大阪交響楽団ミュージック・アドバイザー。米寿を超えてなお日本最高峰の座を譲らないマエストロ──という“伝説”は耳にしていたものの、初めてその指揮姿に触れるコンサートでもあった。
まず記しておきたいのは、外山雄三の“始動”が速いこと。ステージに姿を現わし、指揮台に上がるやいなや、オケからすでに音が出ている。その“間のなさ”は当日の全曲に共通し、彼の“意図”であることが伝わった。
台の上でひと呼吸、楽団員とアイコンタクトを交わしてからおもむろに曲を──ではないのだ。すでに準備は万端、四の五の言わずに曲の世界へ引きずり込もうという気迫で、客席はたちまち異界への旅立ちを余儀なくされる。
しかし解釈は、“オーセンティック”という言葉がこれ以上ないほどふさわしいと感じる外連味のなさ。
ボクのような“ジャズ者”、つまりどちらかといえば外連味がないと物足りないと思ってしまうような“邪耳”でも、悔い改めざるをえない“正当の美学”を目の当たりにさせられた思いがするのだ。
民俗楽派を再考させられるプログラム
当日のプログラムは、
1. 越天楽(編曲・近衛秀麿)
2. ルーマニア民俗舞曲Sz.68(バルトーク)
3. ピアノ協奏曲第1番変ホ長調S.124/R.455(リスト)
4. ラプソディ・イン・ブルー(ガーシュウィン)
5. ハンガリー狂詩曲第2番(リスト)
6. 管弦楽のためのラプソディー(外山雄三)
あらかじめこの演目は公表されていたので、正月に「越天楽」をオーケストラで、という趣向を楽しみに会場へ向かった。
雅楽の「越天楽」の崇高さを西洋楽器と西洋音階でどう表現するかがこの曲のキーポイントになるわけだが、都響は近衛秀麿のアレンジをしっかりと受け止め、そこにあるはずのない笙や龍笛といった“音色”を彷彿とさせ、しかもホールの高い天井を有効に利用した“神々しさ”を醸し出していた。
2曲目はバルトーク。コンサート前は「越天楽」と「ルーマニア民俗舞曲」を並べてしまうセンスに外連を感じていたものの、いざ「ルーマニア民俗舞曲」が始まると、バルトークがこの曲にルーマニアという“土地の臭い”を込めようとした試みが、正月に「越天楽」を聴く日本人の姿に重なった。
そして当夜のリストもまた然り。
こうした深遠な思考の森へと誘おうとするのが外山雄三なのだろうか……。
当夜のソリスト、横山幸雄は3と4を担当。「1990年のショパン国際ピアノコンクールで日本人最年少入賞」という経歴は、彼を迎え入れる客席にとって“安定の巧さ”を約束する安心材料でもあるのだろうが、それはまた巧すぎるゆえの“一期一会の感動を引き起こす起爆剤”に至らない不満材料にも成り得る。
その“不満リスク”を見事に払拭してくれたのが、「ラプソディ・イン・ブルー」での演奏だった。ジャズ・ピアニストも弾くことが多いこの曲、いままで観た(聴いた)なかでも突出した表現力だった。協奏曲でのソロ楽器は合奏とまったく違うアプローチを採らなければ存在する意味がなくなると感じていたけれど、ここでの横山幸雄の演奏は“ラプソディ”たる民族性をかきたてる対比を見事に演じきっていた。すなわち、ジャズを象徴的に引用したアメリカの他民族的なオーケストレーションと、正確無比に音を積み上げていくヨーロッパ的なピアノ技法の対比。
ピアノが“ジャズ的でない”ことによって、ここまでこの曲の輪郭が浮かび上がってくることに気づかせてくれただけでも、このコンサートはボクにとって大きなお年玉になったと言ってよい。
ラストは外山雄三のオリジナル「管弦楽のためのラプソディー」。1曲目の「越天楽」とこの曲で全体を挟むことにより、当夜の“音楽と民俗(あるいは民族)”という“講義”は美しく完結した。
ワークショップと呼んでも差し支えないほどの多層的なプログラムだったこのニューイヤーコンサート。“初夢”だ〜なんて寝ぼけていたらもったいないと思ったので、原稿に残しておくことにしたという次第。