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【光る君へ】藤原行成は官吏として優れており、能書家としても知られていた

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
(写真:イメージマート)

 今回の大河ドラマ「光る君へ」では、藤原行成が蔵人頭として一条天皇に仕える場面があった。かなり弱々しくて頼りない印象を受けたが、どういう人物だったのか考えることにしよう。

 藤原行成が誕生したのは、天禄3年(972)のことである。父の義孝は、正五位下・右近衛少将で生涯を終えたので、お世辞にも出世したとは言い難い。

 行成は祖父で太政大臣を務めた伊尹の猶子となったが、同年11月に没した。父の義孝も天延2年(974)に亡くなったので、幼かった行成は外祖父の源保光に養育されることになったのである。

 永観2年(984)に花山天皇が即位すると、その翌年に行成は侍従に任じられた。おじの藤原義懐は花山天皇の外戚だったので、いったんは権力を握った。

 しかし、藤原兼家(道長の父)の謀略により、寛和2年(986)に花山天皇が退位したので、義懐は力を失った。とはいえ、行成はさほど影響を受けず、以後も少しずつ昇進を続けたのである。

 長徳元年(995)、蔵人頭だった源俊賢が参議に昇進すると、行成は俊賢の推挙によって蔵人頭に抜擢された。その後、行成は藤原道長の厚い信任を得て、順調に出世を重ねていった。

 長保3年(1001)、行成は参議に任じられると、以後は中納言、権大納言と昇進した。その勤務態度は極めて良好で、故実にも通じていたという。一条天皇も大変信頼したのである。

 のちに、行成は藤原公任、藤原斉信、源俊賢とともに「四納言」と称されることになった。行成の日記『権記』は、当該期の政治などを知るうえで、非常に貴重な史料である。

 行成が亡くなったのは、万寿4年(1027)12月4日のことだが、同じ日に没したのが道長なのである。

 行成といえば、能書家として知られている。後世になって、小野道風、藤原佐理とともに「三蹟」の1人に数えられた。その筆跡は、行成が権大納言だったことにちなんで、「権蹟」と称された。行成の死後、子孫は書道を家業とし、その流派は世尊寺流と呼ばれたのである。

 行成の書としては、『白氏詩巻』(東京国立博物館蔵)、『本能寺切』(本能寺蔵)、『後嵯峨院本白氏詩巻』(正木美術館蔵)が国宝に指定されている。書は得意だったが、歴史物語『大鏡』によると、行成はあまり和歌がうまくなかったという。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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