フットボールの凡庸性。「ファンタジスタ」の喪失と「10番」不在の世界で。
フットボールは凡庸になった、と言われて久しい。
ビッグクラブが敗れれば、原因が模索される。「内容が乏しかった」。その時、最も使われる言い訳がこれだ。
内容が乏しい。だが、その根幹は、別の、もっと深いところにある。
プロの世界では、結果が全てだ。監督にとっては、尚更である。しかしながら「勝利」が唯一、あるいは至上とされる世界線で、「美醜」が存在する余地があるかは疑わしい。
現在、フットボール界で重視されているのはコントロールだ。試合のコントロール。選手のコントロール。体調のコントロール。そのなかで、イマジネーションとインスピレーションを生み出す選手等、邪魔でしかない。
■「10番」の消滅
傾向は徐々に進むものだ。だが象徴的な存在の出現、出来事というのは、時にそれを加速させる。逆説的になるが、「10番の消滅」はこれに当たるだろう。
現代フットボールにおいて、クリエイティブな選手は、セカンドトップ、ウィング、インテリオールでプレーするようになった。
ファンタジスタはいない。死んだのだ。「最高のトップ下とは、ボールロスト後のプレッシングである」。このように語ったのは、昨季までリヴァプールを率いたユルゲン・クロップ監督だ。
トップレベルの傾向は育成年代にまで波及する。選手を育てる指導者たちにも、「結果」という課題は付き纏う。そうなると、創造性のある選手より、スピードのある選手、パワーのある選手が優先的に起用されるようになる。中長期スパンの生存戦略としては悪手だが、目の前の勝利に飛びつく他ない。
こんにち、「良いチーム」というのはポゼッションを志向する。だがボールを保持するために保持しては、本末転倒だ。それは文章の締め方を考えずに、書き始めるようなものである。
勝つためには、攻めなければいけない。縦パスやスルーパスを通すには繊細な技術が必要で、スペースを生み出すには「パウサ」が肝要だ。ドリブル、ワンツーといったプレーも同様である。「負けないこと」を意識するなら、ゴール前にバスを敷く戦術を、毎試合、採り入れたらいい。
それは、観ている者にとっても、退屈なフットボールだ。プレーは繰り返されるのみで、つまりその精度が競われることになる。一連のプレーを、如何に速く、如何に正確に処理できるか、だ。そこにはイマジネーションが欠けている。
ファンタジスタは死んだ。イマジネーションも死んだ。そして残るのは、精密機械のように動くプレーヤーたちだけである。
しかし、監督に責任は押し付けられない。イマジネーションは、選手から生まれるものだ。才能溢れる選手たちから、である。先述の通り、そういった選手たちを置けないという意味では、責任はあるかも知れない。だがより問題視されるべきは環境だ。変化に適応できない者は生き残れない。この「ダーウィン主義」から逃れられる人間は、いない。
欧州のトップで戦う中盤の選手たちを見て欲しい。
彼らは走る。ボックス・トゥ・ボックスの選手で、ハードワークを厭わない。フィジカルベースが高い選手が重宝されるので、自ずと、スペースは潰される。考える時間もない。
ロボットのように動く選手たちは頭が固い。一方、クリエイティブな選手、イマジネーションのある選手というのは、「騙す」のが得意だ。我々は、ヨハン・クライフの「クライフターン」に、ディエゴ・マラドーナのラボーナに、ジネディーヌ・ジダンのルーレットに、魅了された。
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