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織田家が率いる「尾張兵」が激烈に弱かったというのは事実なのか?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
織田信長。(提供:アフロ)

 世の中には漠然と信じていたことが、特に根拠がないと判明したものも多い。織田家が率いる「尾張兵」が激烈に弱かったというのも怪しいので、事実なのか考えることにしよう。

 戦国時代が好きな方と話をしていると、「織田家が率いる〈尾張兵〉は弱かったんですよね?」と聞かれることがたびたびあった。これまではあまり関心がなく、聞き流すだけだった。とはいえ、信長は天下を取ったのだから、尾張兵が弱いとは奇妙な話である。

 司馬遼太郎氏の『覇王の家』は、徳川家康の生涯を描いた歴史小説である。新潮文庫版の11頁には「三河衆一人に尾張衆三人」と書かれている。これは、三河国の松平氏の兵1人に対抗するには、尾張国の織田氏の兵が3人必要という意味である。

 その文脈をたどると、織田信秀(信長の父)はたびたび後進地帯の三河国に侵攻した。ところが、三河国の国人(松平氏の家臣)は、①質朴で困苦に耐え、利害より情義を重んじた、②主君に忠実で城の守備に強く、③戦場では退かずに戦った、という。

 つまり、信秀は三河国にたびたび侵攻したが、屈強な三河衆には敵わなかったということになろう。一方で司馬氏は、三河衆の守戦での強さは天下無類であったと記している。織田家が率いる「尾張兵」が弱かったという元ネタは、『覇王の家』だったと思われる。

 「国民的な大作家」である司馬氏が、作品で「尾張兵が弱い」と書いたので、人々の間に広まったのだろう。逆に、松平氏が率いる三河兵は、屈強な集団と理解されたに違いない。そもそもが信秀時代の評価だったが、信長にも適用されたようだ。

 当時、松平氏は今川氏と織田氏との狭間で苦境に陥っており、やがて今川氏の配下に収まった。織田氏は今川氏と互角の戦いをしていたのだから、尾張兵が三河兵より弱いというのは疑問が残る。ましてや、信秀の子の信長は、その尾張兵を率いて天下を取ったのだからなおさらである。

 織田家の尾張兵が何をもって強かったか、弱かったのかを一次史料で論証することは極めて困難で、それは三河兵についても同じである。「尾張兵が弱かった」というのは、あくまで小説の話であり、歴史研究で論証されたわけではないので、注意が必要である。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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