阪神・原口文仁選手 はっちゃけたビールかけの原点は20年前!?
「これがいいんですよ。普通に“野球教室”という名前、それと“ふれあい”って言葉も。ね?いいでしょう?」
そう笑顔で語るのは阪神タイガースの原口文仁選手(31)。地元である埼玉県大里郡寄居町の寄居運動公園野球場で24日、クリスマス時期の恒例行事となった『原口文仁後援会主催・ふれあい野球教室』が開催されました。
2016年のオフには、夫人が寄居町出身という縁で楽天の銀次選手(35)を迎え、寄居町商工会議所の主催で野球教室が行われたのが最初。ちょうどその年に1軍デビューを果たし、月間MVPやオールスター出場と目覚ましい活躍を見せた原口選手も参加したのです。
翌2017年からは原口文仁後援会主催となり、その第1回は午前の野球教室が“ふれあう会”、午後の後援会会員との交流が“励ます会”という2本立て。以降は野球教室のみですが、“ふれあい”という言葉は続き、コロナ渦による休止を1年挟んで昨年復活しています。
後援会主催になって6回目のことしは、寄居町4チームと近隣町4チームの計8チームが集結しました。今回初参加のチームもあったとか。しかも総勢が約160人というのは過去最多です!小学1年から6年の子たちで、8チーム中2チームが女子ソフトボールチーム、そのうちの1チームは中学生という顔ぶれ。
そして原口選手とともに子どもたちを教えるのはおなじみ、社会人チーム・SUBARUの日置翔兼選手(33)。中学時代、深谷彩北リトルシニアで原口選手の先輩でした。またその深谷彩北リトルシニアの中学生たちが、ことしも外野守備などのお手伝いに来てくれています。
来年は『V原口』で?
明け方の最低気温が-4度と冷え込んだ朝ですが、風はなく日差しも降り注いで最高の天候!朝9時の開会式では主催の原口文仁後援会・田中静雄会長の挨拶に続き、来賓を代表して寄居町の峯岸克明町長にもお言葉を頂戴して、いよいよ野球教室開始です。
そうそう、バックネットに掲げられた後援会の横断幕下に“VAMOS原口”の文字が!さらにホーム後方の地面にも“VAMOS”と白く書かれていました。それを見て原口選手が「来年の登録名はV原口かな」なんて言いながら笑います。なるほど、T-岡田選手にならって?いいかもしれませんね。
野球居室では子どもたちのキャッチボールや守備練習など、原口選手と日置選手がチームごとに見て回り、時には自身も捕球と送球を披露します。それで、捕ったと思ったボールをはじく場面もあったり(笑)。
そのあと原口選手にノックを打ってもらっての捕球練習、それぞれのチームのピッチャーたちが投げて原口選手が打つという恒例のコーナーがあり、続いて原口選手のロングティーバッティング、最後はいつものようにフリーバッティングで締めくくりです。
フリーバッティングも時間をかけてやりましたね。もちろん柵越えも何本かあったんですけど、ことしは大笑いする場面が少なく、どちらかというと真剣に振っていたような気もします。ラストの1本をホームランで締め、まあまあ満足げな顔でしたね。
イベントのラストはじゃんけん大会で、子どもたちが賞品のサインボールをかけ原口選手と戦います。そのあとは閉会式があり、原口選手と後援会・正木実副会長の挨拶で、ことしの『ふれあい野球教室』は無事、すべてのプログラム終了となりました。
久々の屋外フリーは収穫
では、原口選手の話をご紹介しましょう。まず「いい天気でよかったですね。風がなくて最高!子どもたちがこうやって色々と見て聞いて、何か感じてもらえたら野球教室として意味があると思うんで。そこは子どもたちのこれからに期待したいなと思います」という感想です。
日本一になった阪神タイガース、その一員である原口選手が!という雰囲気は…特になかったですかね。「いやあ、もうなんかね、寄居町だなあ~という(笑)。関西では絶対に無理でしょう。ユニホーム着て外へ出たらもうね。ありえない、こんな、まったりした感じは」。本当に喧騒と無縁の、穏やかなひとときでした。
屋外の打撃もできてよかった?「そうですね。帰ってきてからは外で打ってなかったんで。まあ久しぶりに外で打てたのは、いい収穫というか。映像も撮ったので、どんな感じか見返します。外で打つのは感じが全然違うから。まあそういうのはよかったです」
ともすれば、子どもたちをそっちのけで打っていたような気もしますが。「ほんと自分のバッティング練習しいてただけ、でしたね(笑)。外で撃てる機会なかなかないので」
それで、ここからはずっと地元で?「はい。もういますね」。いつも通り打ったり?「そうですね。でもあんまり長い期間いないので。体を動かしますけど。場所とか見つけながらです」。年明けは?「甲子園や関西の球場で、ちょっとやろうかなと思っています」
打率を上げるために
ちなみにバッティングは今、どういうことをテーマに?「う~ん。結局は、ヒットを打って率を上げていかないといけないっていう、そこはもう大前提なんで。ことしの失敗を来年も繰り返さないように。はい。その意識を持って来年はやっていきたいなと思います」
ことしは飛ばそうとしていた?「飛ばすというよりは長打が出てくれたらと。代打で出ていくところも、やっぱりツーアウト一塁やランナーなしで。何を求められているかというと、長打とか間を抜けてランナーが還ってくるとか、そういうことがやっぱり多かったんで」
「まあ1打席しかないと自然にそっちへ頭が行きがちなところはある。長打と三振っていうのは、どうしてもリンクしちゃうから、そこはちょっともったいなかったなと。50打席でホームラン2本というのはまあまあ。それを残しながらヒットで率を上げられたら、もう最高ですね」
率を上げるためにやっていることは?「室内では、どっちかっていうと放物線というかライナーを意識したバッティングだったんで、きょうホームランにできたのもライナー性の当たりがあって、そこはいい打球がいっていたかなと。またこれから練習して感覚をつかんでいきたい」
起用方法が1年でわかってきたから余計にそう思う?「与えられたポジションでやるしかないので結果が出なかったらやっぱり…。2年連続はもう、かなり致命的で。そこはちょっと自分の中でしっかり覚悟を持って、その仕事に徹しないといけないなと思っています」
最高の一打が教えたもの
タイガースの今季を回顧するテレビ番組等で、4月2日のDeNA戦(京セラ)で原口選手が放った2ランのシーンをよく見ます。打席途中での代打だったことも、またあそこで今季チーム1号が出たというのも印象に残っている理由でしょう。本当にナイスホームランでした!
「あれがもう、よすぎてね。いいのが出ると難しいです」
“よすぎた”というのは?「いいポイントで最高の打ち方をしすぎちゃってるんで、その感覚が残ってしまうんですよね。難しいボールを最高の形、最高の角度、タイミングで打っちゃったので、それが体に残っちゃう。その修正の仕方とかをもっと考えないといけない」
それはなかなか難しい話ですよね。確かに1試合4打席ずつ立っていれば早く修正できたかもしれませんが、この時の原口選手の場合は結果的に7打席を1 ヶ月かけたしまったわけですから。ことし最高の1発が今後の教訓になったということでしょうか。
ところで、原口選手と桐敷拓馬投手(24)に加え、今度新しく白鴎大学から福島圭音選手(22)が入って埼玉県出身が3人になります。ちょうど映画『翔んで埼玉』の第2弾が好評で、何とか結びつけられないか相談しました。翔んでの『翔』を来年の漢字にしますか?
「ああ、いいね。いこう、それで。翔びましょう!来年は成績も翔んで、打球も。あ、打球は翔ばさない(笑)。ライナー、ライナー。でもまあ『翔』でいいんじゃないですか。翔びましょうよ、大谷翔平のごとく。すごかったね、大谷ねえ。同じ人間だから、できると思っているんだけどなあ」
“5年の旅”全日程が終了
年が明けると、原口選手が2019年1月上旬に受けた検査での大腸がん判明から、ちょうど5年になります。入院、手術、半年間の投薬治療を受け、以降も定期検査を続けてきました。がんに“完治”という表現はないとのことですが、ほぼ完治と言っていい経過でしょう。
「その当時に、5年後と考えた時、32歳や31歳はすごく先だなと思ったんですけど。経ってみたら、あっという間でした。あっという間なのに、病気をしたのがすごく昔のようにも感じるんですけど」
「まあ今ね、こうやって元気に野球をやれているっていうのが一番で。 一度そういう経験をして、当たり前が当たり前じゃないっていうことに気づけた。それは本当に大きな出来事だったなと思います」
「何とか1軍でしがみついて、少ない出場機会ですけど。そんなふうに“やっている”というのはファンの人の目や、そういう病気の人たち、家族の人たちに少しでも届いてくれているのではないかなっていうところもあるので」
「それは今後も変わらず、まあ1軍で活躍して見てもらうのが、頑張っている姿っていうのが、一番わかりやすいと思うので。そこは自分も必死にしがみついて、ユニフォームを着て1軍でプレーしたいなと思います」
今でも、病気を抱えた方やご家族から手紙は来る?「届きます。返事も、返信用の切手とか入っていたら絶対するようにしています。本当に僕、サインを書いて全部返します」。もちろん返信用のものが入っていればだと思いますが、受け取った方は嬉しいでしょう。
「それはね、ランディ・メッセンジャーに教わったからです。『これも仕事だ』って」
いいことを教えてくれたメッセンジャー投手に、またそれを今なお変わらず守っている原口選手にも感謝ですね。
では来年1月に検査をして、そこで OK なら終了ということでいいですか?「まあ一応そうですね。全日程は(笑)。とりあえず5年の旅の全日程は終了ですね。その後はどうなのか、また相談だと思うんですけど」
定期検査は半年に1回受けていた?「いえ3ヶ月に1回です。3ヶ月に1回で、半年に1回は大きいのを」。今後も年1回で検査を受ける可能性が?「そうですね。それはあるかもしれないですね」
でも区切りを迎えたと言えるでしょう?「そうですね。とりあえずね」。もう一度生まれ変わる?「いや、それはないぞ。成績だけ生まれ変わりたい(笑)。代打で50安打とか。でも無理ですよ。143試合に出ても50は打てないですからね」
そして「打席に多く立つためには、やっぱり状態を保っておかないといけない、内容とかも。原口を使いたいと思わせないといけない。だから、そこの状態維持とか、それがキーになってくるかなと思います」と、これは真顔で続けました。
状態を保つということ、1年やってきて何かつかめた?「いやわからない。そればっかりは難しいですね。まあ、やり方はわかっているかもしれないけど。でも、その時の状態のいい悪いは、やっぱり…どうにもできないんだなあ」
そんな中、打席に入る前はどういう気持ちで?「意外と自分のことだけ、バッティングのことだけ考えた方がいいかな。いろいろ考えすぎちゃうと1打席しかないんで、あっという間に終わって3球三振。だから自分がやりたいこととか、そういうことに集中して」
吉報に涙して旅立ったお父さん
球場でのイベントが終了したあと、田中会長をはじめ後援会役員、事務局の方々にお話を伺う機会がありました。
皆さん、原口選手が小学生だった当時の少年野球チーム・寄居ビクトリーズ(現キングフィッシャーズ)時代に指導をされた方や親御さん方で、それぞれ子どもが同世代とあって原口選手のことも「フミ、フミ」と息子のようでしたね。
そして9月に亡くなった父・原口秀一さん(享年65)についても、やはり思い出話がいっぱい出てきます。田中会長いわく「うちの子がキャッチャーをやりたいと言っているんだけど、どんなミットを買ったらいいだろう」と相談されたいう話も。
「本当に息子のやりたいことを、全力で応援している父親だった」と田中会長はおっしゃいます。
9月14日、病院で看護師さんから「阪神が優勝しましたよ」と聞かされた秀一さんは、涙を流して喜ばれたそうです。その数日前、原口選手は休みを利用して会いに行き「もうすぐ優勝するから」と直接言えたとか。そしてリーグ優勝から10日後に旅立たれました。
実は原口選手の後援会ができるという話があった際に、その会長はぜひ田中さんにやってほしいと直談判したのもお父さんだったそうです。お父さんはどうしても、本当に厳しく息子を指導してもらった当時の寄居ビクトリーズ・田中代表がいいと。
「俺は嫌だと、他にふさわしい人がいると断ったんだけど。秀一がどうしてもって言うから…」と、当時を思い出して苦笑いの田中会長。
原口選手にとっても田中会長は誰より怖くて、入団希望すら自分で言えずお母さんに伝えてもらったほど。本当のお父さんよりも怖い、もう1人のお父さんみたいな存在でしょうから、まさに適任ですね。
子ども時代のエピソードもいろいろ伺いましたが、その中でなんと!阪神がリーグ優勝した時と日本一になった時、それぞれのビールかけで“パインアメ”をかぶって大はしゃぎしていた原口選手の、そのルーツが明らかにされたのです。
それは文仁少年が小学5年生だった時のこと。自ら「キャッチャーをやりたい」と当時の田中代表に訴えて…はいません。やはりお母さんに言ってもらって、でも代表に断りなくキャッチャーミットを既に持参していた頃の出来事でした。
原点は小5の“炭酸シャワー”
5年生からキャッチャーを始めて、すぐレギュラーになった文仁少年は、6年生のエースピッチャーが彼の指示しか聞かないほど信頼されていたそうです。そしてその年、チームは地区大会で優勝して見事、県大会出場を決めました。
喜ぶ子どもたちを見ていた父兄の1人、原口文仁後援会の野球教室や励ます会などで名司会を披露されている戸澤裕之さんが「そうだ!」と思いついたのは、“炭酸”をかけるというもの。子どもゆえビールやシャンパンは無理だけど、炭酸水なら大丈夫だと。
しかも戸澤さんからは「サイダーにしようかと思ったんだけど、それではベタベタになってしまうと思って炭酸にした」という経緯を伺いました。そんな配慮もあって、寄居ビクトリーズの子どもたちは大喜びで“炭酸かけ”に興じたそうですよ。
「最高でしょ?いい思いつきでしょ、炭酸かけ」と言いながら「ただひとつ問題だったのは…炭酸が少なすぎて、あっという間に終わってしまったこと」と、いまだ後悔の念も抱き続けておられる戸澤さんでした。
それでも原口選手が「あれはもう、めちゃくちゃ楽しかった!」と、今なお顔を輝かせるくらいの初体験。「ことしのビールかけで、それを一番に思い出した!」そうです。今は30歳を過ぎた当時の少年たちの心にも残っていて、何かの折にまた浮かんでくる最高の思い出でしょう。
なるほど。あの“パインアメ原口選手”の大はしゃぎはそこから来ていたのですね。
はしゃぐといえば、パインアメをかぶって監督や選手に大声で絡む原口選手の姿(決して酔っぱらって人に絡むという意味ではなく)に、映像で見ていた掛布雅之さんが「原口ってこんなキャラじゃないんだけど」と驚いておられましたが、地元の皆さんにとっては普通のことだったようです。
以前、幼なじみの正木裕人さんや戸澤秀志さんにも聞いた通り、後援会事務局の皆さんも「フミはあのまんま」だと言われるくらい、寄居町での文仁くんは相当はっちゃけているみたいですねえ。私は未確認ですけど、お噂はかねがね(笑)。そして今回の炭酸かけという“原点”を知って、より納得しました。
初めて体験した、しかも本当に楽しかった記憶が20年の時を経てよみがえったわけですね。
原口選手だけでなく、ことし2度経験したビールかけも、チームのみんなや家族で出かけた優勝旅行も選手たちには最高の思い出でしょう。「またやりたい」「また行きたい」という声も聞きます。だから忘れないうちにぜひ!
声出し卒業?いやいや!
もう1つ、今季は試合前の“声出し”も話題になりましたね。昔からどのチームでもやっていることですが、最近はチームの公式チャンネル等で動画配信されたり、それがまたテレビでも使われたりするので、皆さんよくご覧になっているでしょう。
ことし原口選手が試合前に声出しをしたのは、(本人の記憶なので参考までに)レギュラーシーズンで32試でした。結果は11連勝を含む28勝4敗、勝率.875。CSファイナルステージは3試合で3勝0敗、日本シリーズは5試合で3勝2敗です。
あれは前の日から考えているのかと問われ、原口選手は「いや、降ってくる」と直前にひらめいたことを話しているように答えたんですけど、絶対に前もって考えているはず。リーグ優勝を決めた9月14日も、前夜に練習していたのを知っていますよ。こんな言葉を。
「18年ぶりのアレを全世界のタイガースファンが待っています。その期待に応えられる日が、きょう来ました。みんなの喜ぶ顔を想像してみてください。やるしかないでしょう!みんなで歓喜の輪を作りましょう。さあいこう!バモス!」
その甲斐あって素晴らしい出来だったようで何より。しかし原口選手はさらっと「来年はもう声出ししないですよ」と言いました。でも要望されれば、また策を練ってやってくれるでしょう。来年は声出しだけでなく、プレーで貢献してお立ち台の「バモス!」も楽しみにしています。
来年に向けて「頑張ります。やるしかない。結果を残すしかない。結果を残すしかない!」と、最後はなぜか突然大きな声で繰り返した原口選手。
「もう本当にそれだけ。どこの場面だろうと、自分のやれることをやって食らいついて、このユニフォームを長く着たいと思います!しがみついて、まだまだ。そういう気持ちで頑張ります。1年、1年。はい!」
来年は15年目、すごいですねと言ったら「すごいですか?でもまだ32ですよ。ほぼ何もやってないですけどね。年数が増えているだけで何もキャリアを詰めていないわ~、ほんとダメだわ~と思うんですよ」と反省もしつつ、最後は「まだまだここで行くぞー!っていう感じです」と締めくくりました。
<掲載写真は筆者撮影>