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【富田林市】あの天誅組も歩いた?金剛ニュータウンの隙間、鳥も鳴く古い道!小川沿いの道を歩いてみました

奥河内から情報発信奥河内地域文筆家(河内長野市・富田林市)

金剛・金剛東地区は羽曳野丘陵を造成して作られたニュータウンです。当然道路は計画的に区画されています。しかし、地図をよく見るとそんな区画された道とは一線を画したような隙間道を見つけたのです。

こちらの赤を引いた部分です。すぐ横に小さな川が流れていて、金剛地区の久野喜台と高辺台の間、小さな川が流れる谷沿いに続く道のように見えます。そのため金剛地区が造成される前、周りが山で雑木林に覆われていたころから存在していた道と考えられます。

報恩寺
報恩寺

そして、この谷間の道は、幕末にあの天誅(忠)組が通った可能性がある気がしました。富田林市史第二巻(本文編Ⅱ)近世編・第六章 幕末期の富田林地方・第二節天誅組の河内勢・二 天誅組河内勢の中に、次のような記載(外部リンク)があります。

一六日早朝、堺に上陸した天誅組一行は、一〇時ごろ狭山に着き、報恩寺で休憩した。吉村寅太郎・磯崎寛らは軍使として狭山藩の陣屋に乗り込み、藩主北条氏恭(一二代)に協力を要請するため面会を申し入れた。家老朝比奈縫殿は、藩主は病気と称し、夜水郡善之祐宅に伺候する旨を回答した。昼食をすませたのち、一行は羽曳野丘陵を越え、午後二時ごろ錦部郡甲田村の水郡邸に到着した。

狭山藩陣屋跡
狭山藩陣屋跡

つまり、16日の早朝に堺に到着した天誅組一行はおそらく西高野街道を歩き、午前10時には狭山藩の陣屋近くにあった報恩寺で休憩します。ここで吉村寅太郎・磯崎寛らが軍使として狭山藩邸に訪れました。

軍使は狭山藩12代藩主北条氏恭に挙兵への協力を要請しますが、藩主は病気ということで面会を拒絶、家老の朝比奈縫殿が代わりに応対しました。とりあえず銃器や武器を渡し、「天皇親征となれば加わる」と回答して軍使を帰します。天誅組一行は昼食を済ませて、羽曳野丘陵を越えて午後2時ごろに水郡邸に向かったとのこと。

大正時代の古地図
大正時代の古地図

天誅組の一行が歩いた羽曳野丘陵は、現在の富田林では金剛・金剛東が該当します。別の情報では、難解地名としても有名な廿山(つづやま)を経由して甲田の水郡邸に向かったとの記録もあります。大正時代の古地図では金剛のニュータウンは、もちろんなく、狭山側と甲田側を結ぶ道は、廿山を経由するしかなかったようです。

そして以前、今も残る道として廿山を歩きました。金剛、金剛東に挟まれるように残っていた古い集落です。廿山の西の方の道は数年前まで存在していたのですが、新しい宅地造成が行われている関係で消滅していました。

そして今回は、狭山から廿山の入り口、道が途切れるあたりを歩いてみることにしました。報恩寺のすぐ近くに大阪狭山市駅があるので、そこからスタートします。

大阪狭山市駅から東方向、富田林市との境目(右側が富田林市)にある小さな川です。この小さな川は廿山付近が源流のようになっています。川をさかのぼるように南側に向かって歩いていきます。

川沿いの道です。まっすぐ続く道を歩きます。川の反対側は富田林市ですが、歩いている道は大阪狭山市で、循環バスの金剛二丁目バス停が見えます。

と思っていたらちょうどさやりんが描かれている循環バスが走って来ました。

この交差点からは富田林市内に入ります。右側に見えるのは久野喜台3号公園です。

公園の次、右手には富田林市立久野喜台小学校の建物が見えます。

しばらくは小さな川を囲むように両側に道路がありました。やがて画像左側の道は川から離れていきます。

さらにすすむと、陸橋が見えます。先ほどまでは金剛の住宅地と一体化しているように見えた道でしたが、この辺りから住宅地の方が高台になるため、一段低い谷になっています。

川沿いの道です。両側が高台のため完全に谷間になっています。そして川の左側には自然が残っているのがわかります。

川の反対側です。こちら道路もなく川からいきなり高台になっているため、ニュータウンのすぐ近く(高辺台)を歩いている気がしません。また鳥も多くいて、鳥の鳴き声が非常によく聞こえました。ここはニュータウン造成時にも手を付けずにそのまま残っていたとすれば、もしかしたら天誅組一行もこれに似た自然を見て、鳥の鳴き声を聞いていた可能性がありますね。

さらに歩いていきます。右手に分岐している道がありますが、あの道の途中には金剛中央公園に入れるようになっています。

ふたつ目の陸橋が見えてきました。

こちらは、道路の陸橋のほか、いくつもの管があります。住宅地同士を結んでいる管なので、ライフラインに関係する管のような気がしました。

陸橋といくつもの管をくぐります。

右手に金剛中学校があり、やがて交差点が見えました。これまでは谷で、住宅地の道路をくぐっていましたが、同じ高さになりました。住宅地側の標高が下がっているのかもしれませんし、川の上流に向かってさかのぼるように歩いてきたので、気が付かない間に緩やかに坂を上がったのかもしれません。

寺池台2丁目東交差点に架かっている橋です。「おのお橋」という名前です。

おのお橋から引き続き川沿いを歩きます。

右側は寺池台です。

ここでとても古い小橋が見えてきました。実はこの道は、かつて廿山に続いていた道だったのです。

そして数年くらい前を見ると山になっていて、その先にある廿山の集落に続いていたことがわかります。しかし、山は宅地開発のために造成され、小さな道も消滅したようです。

とはいえ、橋を渡って道が続いているようだったので、どこまで行けるか歩いてみました。

数年前までは雑木林が広がっていたあたりも造成されていますが、古い道は続いています。

さらに歩いて行くと、坂のようになっています。そして造成されたところには新しい家が建っていました。

坂を上りました。この先で小道は消滅していました。

ということで引き返します。狭山から廿山を経由する道はここで途切れましたが、おそらく天誅組も歩いたであろう道と推測できました。

先ほどの古い橋の前まで戻りました。

川沿いの道を歩くと、ここで川が暗渠(あんきょ)となります。地図で見てもこの先がわからず、どの場所が源流になるのかも判明しません。

そのまま歩いていきます。この道は寺池台の外淵にある道で、左側は造成されていて新しい住宅地になるものと思われます。

そのまま直進すると、ちょうどカフェ・ユーさんの目の前の道まで合流します。そして錦織公園があるので、そこまで行くことにしましょう。

錦織公園に到着しました。歩いたタイミングはちょうど紅葉の盛りでした。

これは河内長野の話題ですが、天誅組に関する足跡を巡る観光ボランティア倶楽部が主催する町歩きが、年明け1月22日に行なわれます。申し込みは電話のみで1月9・10日の2日間受け付けるとのこと。興味のある方は問い合わせてみましょう。

狭山から廿山までの道

住所:大阪府富田林市久野喜台、寺池台
アクセス:南海大阪狭山市駅から徒歩5分

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奥河内地域文筆家(河内長野市・富田林市)

河内長野市の別名「奥河内」は、周囲を山に囲まれ3種類の日本遺産に登録されるほど、歴史文化的スポットがたくさんある地域です。それに加えて、都心である大阪市中心部に乗り換えなしで行ける複数の大手私鉄(南海・近鉄)と直結していることから、新興住宅団地が多数造成されており、地元にはおしゃれな名店や評判の良い店なども数多くあります。そして隣接する富田林市もまた、歴史文化が色濃く残る地域。また南河内地区の中核都市として、行政系施設が集まっています。これを機会に、奥河内(一部南河内含む)地域に住んでいる人たちのお役に立つ情報を提供していければと考えています。どうぞよろしくお願いします。

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