<朝ドラ「エール」と史実>本当は危険な前線まで行っていない? 古関裕而がビルマでやっていたこととは
■慰問というより中佐待遇の従軍だった
朝ドラ「エール」の戦時下篇も、ついに4週目に突入しました。今回は、初っ端からビルマの慰問です。前回予想したとおり、やはり1944年の戦地訪問がベースになっているようです。
1944年の戦地訪問は、慰問というより、従軍でした。古関は、大本営陸軍報道部より報道班員に任命され、インパール作戦の取材を命ぜられたのです。報道班員とは、文化人や新聞記者、カメラマンなどを軍属として徴用して、軍の命令のもとで宣伝や報道に従事させる制度。ちなみに、古関は中佐待遇でした。
古関には、ドラマと同じく、作家と洋画家が同行しました。火野葦平と向井潤吉がそれです。
火野は、日中戦争に出征中『糞尿譚』で芥川賞を受賞。その後、報道部門に転属になって、『麦と兵隊』を発表するなど、兵隊作家として知られました。向井は、いまでは民家の絵で有名ですが、戦時中はたびたび従軍し、数多くの戦争画を残しました。「影(中国・蘇州上空にて)」という作品が、とりわけ有名です。
■火野葦平より託された「ビルマ派遣軍の歌」
古関たちを乗せた重爆撃機は、1944年4月25日早朝、羽田飛行場より出発。上海、台湾の屏東、サイゴン、バンコクなどを経て、4月29日(天長節=天皇誕生日)、ラングーン(現・ヤンゴン)に到着しました。古関は前回の戦地訪問でもラングーンに来ているので、これで2回目ということになります。
古関たちは、さっそく軍の司令部に顔を出しました。すると、目標であるインパールの陥落には、まだまだ時間がかかるとのこと。日本では陥落間近のようなことが言われていたので、これは意外な答えでした。いや、実際は苦戦も苦戦、7万2000名もの死傷者を出して、インパール作戦は失敗に終わるのです。その作戦の責任者こそ、古関も会ったことがある牟田口廉也でした。
そんなことを知らない古関たちは、しばらくラングーンに滞在していましたが、火野と向井はしびれを切らし、5月7日、志願して前線の様子を見に行くことにしました。そしてその出発の日、火野は古関に歌詞を託します。「ビルマ派遣軍の歌」がそれでした。
古関はかならず作曲すると約束したそうですが、その曲はビルマ滞在中に完成しなかったようです。
火野の日記の、8月27日の項には「古関君はしばらく盤谷[バンコク]に滞在、『ビルマ派遣軍の歌』はそこで作曲してラングーンへ送る由」とあります。これは、帰路に立ち寄ったサイゴンのことでしょう。古関は、サイゴンで演奏会の指揮にあたったのです。したがって、バンコクは勘違いかと思われます。
■「「ビルマ国軍行進曲」なども作曲して置いてまゐりました」
ようするに、史実の古関裕而は、ずっと安全なラングーンに滞在していたということです。火野と向井が帰ってきたのは、約2ヶ月後のことでした。「エール」では、主人公の裕一が前線に向かうそうなので、ここは大きく違う点です。
それはともかく、危険な前線から帰ってきた火野たちは、現地がいかに悲惨だったかを教えてくれたといいます。
このような事情があったため、ドラマでは描かれないできごとがあります。
ひとつは、火野たちが前線にいっているあいだ、古関がラングーンでやっていたこと。古関は、雨季のビルマでデング熱に苦しめられながらも、そこでさまざまな音楽活動を行っていたのです。
古関は、できて間もないビルマ国のために、音楽を作ってあげたというのです。そのほか、現地の部隊に頼まれるまま、たくさんの部隊歌を作曲しています。これは、古関自身の定義に照らしても、「戦時歌謡」ではなく軍歌だと思います。
■「「露営の歌」は怪しからん、死んでかへれなど、兵隊は死ぬのが本意ではない」
もうひとつ興味深いことがあります。古関はビルマにして到着早々、「露営の歌」で軍人に怒られたというのです。火野葦平が司令部で、井上という宣伝部長に古関を紹介したときのこと。それまで好々爺然としていたこの軍人は、さっと顔色を変えたといいます。
古関は作詞者ではないので、こう言われても困ったにちがいありません。なお、作詞者の藪内喜一郎は、このとき読売新聞の記者をやっていたので、おそらく取材でラングーンに来ていたのでしょう。古関も現地で再会したと思われます。
事前発表によると、「エール」では、裕一は、兵役中の藤堂先生とビルマで再会するようです。これはまったく架空の話ですが、もしかすると、この藪内との再会を膨らませたのかもしれません。
このように、1944年のビルマ訪問も、エピソードが盛り沢山です。古関は自伝でかなり詳しく戦地訪問について書いていますが、抜けているものも多々あります(記憶が曖昧になっているところも少なくありません)。ですから、以上で用いたような史料で補わなければならないのです。