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<朝ドラ「エール」と史実>梅のモデル? 金子の妹夫妻は古関裕而が「軍歌の覇王」になるきっかけを作った

辻田真佐憲評論家・近現代史研究者
(写真:GYRO PHOTOGRAPHY/アフロイメージマート)

放送再開後、最初の朝ドラ「エール」は、ヒロインの妹・梅が、主人公の新弟子とくっつくという意外な展開となりました。さすがにこれは実話ではないですが、音のモデルである古関金子には、2人の妹がいました。そしてそのうちのひとりである松子とその夫には、古関裕而がやがて「軍歌の覇王」になるきっかけを作ったという“隠されたエピソード”があります。

この史実は、今後反映されるのでしょうか。来週からの戦時下篇を前に、その意外な歴史を振り返っておきましょう。

■妹夫妻に会うため満洲旅行へ

古関が「軍歌の覇王」と呼ばれるきっかけとなったのは、「露営の歌」です。この軍歌のレコードは、日中戦争の初頭、1937年8月26日にリリースされ、半年で60万枚も売り上げる、記録的な大ヒットとなりました。古関のデビュー曲「福島行進曲」の初回製造数が1500枚、古賀政男の大ヒット曲「酒は涙か溜息か」の製造数が23万9376枚(1942年元日の製造停止時点)であることを考えれば、これがいかに大きい数字かがわかるでしょう。

では、それが金子の妹・松子夫妻とどう関係しているのでしょうか。

順を追って説明してきましょう。歴史を少しさかのぼって、1937年7月下旬。古関夫妻は満洲・関東州に旅行に行きます。その目的のひとつが、ほかでもない、同地に住む松子夫妻に会うことでした。松子の夫・渡辺千之は、満洲で憲兵をしていたのです。すでに日中戦争ははじまっていましたが、「そこまで拡大することはあるまい」との期待のなかでの船出でした。

大連に上陸した古関夫妻は、その後、満鉄などに乗って、旅順、奉天、新京、ハルビン、鞍山などを観光。各所で大きな刺激を受けました。とくに古関は、日露戦争の古戦場・旅順が「最も印象的な所」だったと書き残しています。

激戦地の二〇三高地や、東鶏冠山の砲塁の跡も見た。崩れかけた半地下壕のあたりには砲弾の痕も生々しく、内部の銃眼から外をのぞくと、暑い陽射しの中に乾いたような夏草が揺れ、壕の隅では虫がチチチ――と鳴いていた。戦争を知らない私たちは、絵本や教科書で、広瀬中佐が旅順港封鎖のために沈めた船から引き上げる時、杉野兵曹長の姿が見えないのでさがすうちに敵弾に倒れたことを、「杉野はいずこ、杉野はいずや――」の歌に残る過去の歴史としてしか受け止めていなかった。が今、血、肉の飛び散ったであろう大地に立つと、力で奪う国の領土争いの悲惨な犠牲の痛ましさに感慨無量だった。満洲旅行中で最も印象的な所であった。

出典:古関裕而『鐘よ鳴り響け』

やや長く引用しましたが、この印象がのちに大きく影響してくるのです。

■暇つぶし的に「露営の歌」を作曲

古関夫妻は予定を終え、8月中旬、大連港より帰国の途につきました。その船上で、古関はコロムビアよりこんな電報を受けました。「急ぎの作曲があるから神戸で下船しないで門司から特急で上京されたい」。なんだろうと思いながらも、古関夫妻は言われるがまま、門司で下船し、フェリーで下関にわたり、駅前旅館で一泊して、翌日の特急列車に備えました。

あくる朝、古関は旅館でひさしぶりに内地(日本本土)の新聞を手に取りました。8月12日付の「大阪毎日新聞」(現・「毎日新聞」)でした。そしてそこには、「進軍の歌」(本多信寿作詞)という軍歌の歌詞が大きく掲げられていたのです。

雲わきあがるこの朝、

旭日の下 敢然と

正義に起てり大日本、

執れ、膺懲の銃と剣。

日中戦争の勃発にあたり「大阪毎日新聞」が、同系列の「東京日日新聞」と合同で歌詞を一般から募集して制定したものでした。ところが、古関は一等当選の「進軍の歌」ではなく、二等当選(佳作第一席)の歌詞に引きつけられました。そしてそれが、のちの「露営の歌」(藪内喜一郎作詞)だったのです。コロムビアが急遽古関を呼び出したのも、この軍歌に作曲してもらうためでした。

そんなことを知る由もない古関は、予定どおり特急列車に乗りました。当時は特急といっても、たいへんな時間がかかりました。おのずと手持ち無沙汰になってきます。そこで思い出したのが、今朝みた軍歌の歌詞でした。古関は、いわば暇つぶし的に、「露営の歌」に作曲してしまうのです。まったくの偶然でした。

そこで思い出しのが懸賞募集第二席の歌。東京日日新聞[実際は販路から考えて「大阪毎日新聞」]を広げ、五線譜を取り出した。“勝って来るぞと勇ましく”の出征兵士の出発状況は、山陽線の各駅で既に見られた光景で、武運長久の旗をなびかせたり、日の丸の旗をふる家族の涙で目を赤くしていた様子など胸を打つものがあった。

また、“土も草木も火と燃える”とか“鳴いてくれるな草の虫”など、詩は旅順で見たままの光景で、私には、あの戦跡のかつての兵士の心がそのまま伝わってくるのであった。夏草の揺れ、虫の声もそこにあった。

汽車の揺れるリズムの中で、ごく自然にすらすらと作曲してしまった。私はその楽譜を妻に見せて二人で歌ったりした。

出典:『鐘よ鳴り響け』。一部誤字を修正した。

つまり、満洲旅行の経験が「露営の歌」を作曲する上で大きく影響したと記されているのです。

■「そこはそれ、作曲家の第六感ですよ」

その後、コロムビアに顔を出した古関は、「急ぎの曲って何ですか」と訊ね、それが「露営の歌」だったことを知ると、「あッ、それならもう車中で作曲しました」と楽譜を提出。すると、ディレクターもびっくりして答えました。

「どうしてわかりましたか」

「そこはそれ、作曲家の第六感ですよ」

と言って聞かせると、

「ちょうど短調の曲がほしかったところなんです」

と大喜び。すぐ新聞の関係者を呼び、再び視聴してもらい決定した。

出典:『鐘よ鳴り響け』

なんとも劇的な場面ですね。ドラマでもきっと採用されるのではないでしょうか。来週以降の展開を楽しみに待ちたいと思います。

もちろん、古関は満洲に行っていなくても「露営の歌」を作曲したかもしれません。とはいえ、古戦場を見たからこそ、あの名メロディーも生まれたはずです。その意味で、金子の妹・松子夫妻は、古関夫妻の満洲旅行のきっかけを作り、ひいては、大ヒット軍歌「露営の歌」作曲のきっかけも作ったといえるのです。

<参考文献>

辻田真佐憲『古関裕而の昭和史』文春新書、2020年。

→レコードの製造数について……85〜89ページ。

→「露営の歌」について……110〜126ページ。

評論家・近現代史研究者

1984年、大阪府生まれ。慶應義塾大学文学部卒業。政治と文化芸術の関係を主なテーマに、著述、調査、評論、レビュー、インタビューなどを幅広く手がけている。著書に『ルポ 国威発揚』(中央公論新社)、『「戦前」の正体』(講談社現代新書)、『古関裕而の昭和史』(文春新書)、『大本営発表』『日本の軍歌』(幻冬舎新書)、『空気の検閲』(光文社新書)などがある。

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