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<朝ドラ「エール」と史実>本当は母の病気で辞退を申し出ていた? それでも古関裕而は3度も戦地へ行った

辻田真佐憲評論家・近現代史研究者
(提供:MeijiShowa/アフロ)

朝ドラ「エール」の戦時下篇も、ついに3週目を終えました。主人公の裕一は、来週回より、慰問のため戦地に旅立ちます。

これは予想されていたとおりです。というのも、モデルとなった古関裕而も戦地に赴いているからです。しかも、3回も。1回目は、1938年9・10月、華中へ。2回目は、1942年10月から翌年1月まで、おもに東南アジアへ。そして3回目は、1944年4月から9月ごろまで、ビルマへ――。

ドラマでは、時期から考えて、3回目のビルマ訪問が元ネタになるものと考えられます。出発するころ、古関の母が体調を崩していたのも、このときのことです(ただし、史実の古関は、それを理由に戦地訪問を辞退しています。ところが、軍から「貴下に万一のことがあった場合は靖国神社にお祭りいたします。ご母堂さまもそれほどご重態でもなさそうですし……」と言われて、断りきれませんでした)。

そこで、3回目の具体的な話は来週するとして(ネタバレになるリスクがあるので)、ここではおもに2回目の戦地訪問について紹介したいと思います。これも見逃せないエピソードの宝庫です。

■接収したフィルムに「びっくりしましたよ」

1回目の戦地訪問は、すでに言及しました。古関は、「レコード部隊」の一員となり、西条八十たちとともに、上海、南京、九江などを訪問。現地で兵隊たちに「露営の歌」作曲者として紹介され、歓声が起こることもありました。「暁に祈る」の作曲は、このときの経験が生かされたといいます。

では、2回目はどうだったのでしょうか。これは、日本放送協会(現・NHK)の南方慰問団に加わったものでした。古関は、総勢30名余の歌手や演芸関係者とともに、台湾、仏印、シンガポール、ビルマ、中国雲南省、マレーなどを周り、現地の兵隊たちを慰安したのです。1942年10月から翌年1月までという期間をみてもわかるとおり、これは古関が参加したなかでもっとも大規模な戦地訪問でした。

もっとも、このころ日本の戦況は悪くなかったので、その回想は全体としてかなり牧歌的でした。たとえば、シンガポールでは、占領時に接収したディズニー映画『ファンタジア』を見て、びっくりしたといいます。

キャセイビルを大東亜ビルと言っていまして、その中の大東亜劇場で第一回[の慰問会]をやりました。そこでディズニーの「ファンタジー」[原文ママ]をお礼に特別に見せてもらいました。接収したフィルムですが、見てびっくりしましたよ。

出典:日本放送協会編『放送夜話』

それもそのはず、『ファンタジア』では、かつて古関が憧れたストラヴィンスキーやムソルグスキーの音楽が使われていたからです。しかもアニメはフルカラー。手塚治虫のように、「こんな技術がある国に勝てるわけない」と心密かに思ったかもしれません。

■「ふと見ると傍らに筆太に「みどり温泉」と書いてあった」

その後、慰問団は海路でビルマに送られます。ここは最前線なので、苦労も多かったようです。慰問団は二手に分けられ、古関たちは、おもにビルマ東部へ。マンダレーから、メイミョー、ラシオ、センウイ、クッカイまで、主要な地点をくまなく回らされました。

そこからさらに国境の町ワンチンを越えて、中国雲南省に入り、一行は拉孟まで到達しました。いわゆる「援蒋ルート」(重慶の蒋介石政権への物資支援ルート)をたどったかたちです。雲南省は本当に奥地も奥地。そのため、娯楽に飢えていた兵隊たちは、この慰問団を大歓迎したといいます。

その帰路、古関たちは温泉にも入っています。ラシオ近くのナムオンです。日本兵たちは、これを「みどり温泉」と名付けていました。

ラシオから少し東北に行ったところに露天風呂があった。ビルマには珍しい温泉であった。トラックで通りかかった私たちは大喜びで小休止して入浴した。温度は快適。乾季のビルマの日中、山岳地帯、北シャン州の美しい樹々に囲まれた静かな露天風呂は、疲れをいやすに十分であった。湯壺から上がり、ふと見ると傍らに筆太に「みどり温泉」と書いてあった。

出典:古関裕而『鐘よ鳴り響け』

なお、古関は自伝で雲南省への往路で温泉に入ったと書いていますが、新発見の「日本放送協会派遣皇軍慰問演芸団」上下巻(福島市古関裕而記念館所蔵)など、さまざまな資料を突き合わせると、これは復路のできごとだったようです(このあたりの詳細は、拙著『古関裕而の昭和史』160ページ以下をご参照ください)。

■「南シャン州のタウンギーで牟田口閣下に会いました」

古関たちはビルマで、あの牟田口廉也にも会っています。大量の餓死者を出した、悪名高いインパール作戦の責任者です。もっとも、当時は同作戦前。牟田口は第18師団長で、盧溝橋事件やシンガポール攻略戦に加わった猛将として知られていました。

場所は、ビルマ中部のタウンギーでした。牟田口は、慰問団を歓迎するため、牛1頭を使ってすき焼きを振る舞ってくれたといいます。そして山盛りの牛肉を前に、「どうだ、いいロースが出来てるだろう」と得意満面。食肉牛の育て方について一席弁じたといいます。

古関も、牟田口との出会いについて、のちに手紙でこのように書いています。

それから再びビルマ領に戻り、怒江下流の前線基地クンロンに行き、南シャン州のタウンギーで牟田口閣下に会いました。その頃の前線ライカにも行き、メークテーラから東に入ったカローにも行きました。[中略]

南、北シャン州から雲南への慰問行の記憶は、永く私の脳裏に刻み込まれて、柿を喰べれば、あの北シャン州の真黒い服装をしたカチン族から貰って喰べたビルマの柿を思い出し、蜜柑を喰べれば、南シャン州のカローで種の沢山ある小さな蜜柑の事を想い出します。

出典:太田毅『拉孟』

1942年の慰問は省略されてしまったので、残念ながら、牟田口は朝ドラ登場の機会を失ってしまったようです。

それはともかく、1942年の慰問は、楽しい思い出も多かったのです。ところが、1944年のビルマ行は、まさに悲惨なインパール作戦の真っ最中。「エール」でも、かなり重苦しい展開になるのではないかと思います。こちらの詳細については、また来週ご紹介することにしましょう。

評論家・近現代史研究者

1984年、大阪府生まれ。慶應義塾大学文学部卒業。政治と文化芸術の関係を主なテーマに、著述、調査、評論、レビュー、インタビューなどを幅広く手がけている。著書に『ルポ 国威発揚』(中央公論新社)、『「戦前」の正体』(講談社現代新書)、『古関裕而の昭和史』(文春新書)、『大本営発表』『日本の軍歌』(幻冬舎新書)、『空気の検閲』(光文社新書)などがある。

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