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大坂の陣前夜。徳川家と豊臣家に両属した片桐且元の苦悩とは?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
大阪城(前近代は大坂城)。(写真:イメージマート)

 今の会社などにおいても、子会社に出向という制度はあるだろう。片桐且元は似たようなもので、徳川家と豊臣家に両属していた。その概要と且元の苦悩について考えることにしよう。

 且元は近江の出身で、父は浅井長政に仕えていた。且元は羽柴(豊臣)秀吉に仕えるようになり、天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦い(秀吉と柴田勝家の戦い)で大いに軍功を挙げた。その軍功により、且元は3000石の知行を与えられた。

 且元は「賤ヶ岳の七本槍」(加藤清正・福島正則・脇坂安治・加藤嘉明・平野長泰・片桐且元・糟屋武則)の一人に数えられたほどだったが、以降は目立った軍功がなかったのか、加増されて1万石の大名になったのは、文禄4年(1595)のことだった。

 且元の運命を大きく変えたのは、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦である。且元は西軍に属していたが、東軍が勝利したあとは徳川家康に急接近すると、娘を人質に差し出すなどし、ことなきを得た。戦後、且元は大和竜田(奈良県斑鳩町)に1万8千石を与えられた。

 且元が咎められなかったのは、徳川家と豊臣家の融和に尽力したからだといわれている。且元は家康から知行を与えられる一方で、大坂城に入り豊臣秀頼を支えることになった。その立場は、家康からの命に服するとともに、豊臣家の重臣でもあるという複雑なものだった。

 たとえば、且元は江戸幕府の国奉行として、摂津、河内、和泉を管轄した。他方で且元は、豊国祭の奉行、秀頼の名代を務め、旧太閤蔵入地の算用状を発給するなどしていた。それゆえ、且元は秀頼から1万石を加増されたのである。

 慶長19年(1614)に方広寺鐘銘事件が起こり、鐘銘中の「国家安康」、「君臣豊楽」の文言が問題視された。前者は家康の名前を2つに分割し、呪ったというのである。且元は問題を解決すべく徳川家と豊臣家の間を奔走したが、豊臣家の面々からはスパイと思われた。

 且元は豊臣家の存続を願い、あえて不利な条件をのむよう進言したが、それがまずかったのである。且元は討たれそうになったので大坂城から退いたが、もはや見込みがないと見切りをつけたのだろう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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