テレビは「時代遅れ」なのか? 「平成」のテレビバラエティの変遷
テレビっ子の時代
平成の前半、つまり90年代は「テレビっ子の時代」だった。
平成が始まった1989年、『オレたちひょうきん族』(フジテレビ)が最終回を迎え、ひとつの時代が終わった。そこで注目を浴びたのは、子供の頃からテレビが当たり前のように娯楽の中心にあった中で育った世代の代表である、とんねるず、ダウンタウン、ウッチャンナンチャンたちだった。
彼らはそれぞれ『とんねるずのみなさんのおかげです』(88年~)、『ウッチャンナンチャンのやるならやらねば!』(90年~)、『ダウンタウンのごっつええ感じ』(91年~、いずれもフジテレビ)など主戦場となるコントを中心としたタレントバラエティ番組を持ち、新しい時代を先導していった。
一方でフジテレビは深夜に「JOCX-TV2」を“開局”(87年~)。「アンチ・フジテレビ」を掲げ、これまでフジテレビが作ってこなかったタイプの番組を若い制作者に任せ作っていこうという実験枠だ。そこでこれまでの「軽チャー」路線とは明らかに違う『カノッサの屈辱』(90年~)や『カルトQ』(91年~)、『NIGHT HEAD』(92年~)などのサブカルチャー色の強い番組が生まれていった。
90年代半ばになると新たな潮流が人気を呼んでいく。それが『電波少年』シリーズ(92年~)や『ウッチャンナンチャンのウリナリ!!』(96年~)をはじめとする日本テレビによる「ドキュメントバラエティ」だ。それは『ASAYAN』(95年~、テレビ東京)や『水曜どうでしょう』(96年~、HTB)、『ガチンコ!』(99年~、TBS)、『あいのり』(99年~、フジテレビ)など各局に波及していった。こうした流れの中、ドキュメントバラエティとコントの混血のような『めちゃ×2イケてるッ!』(96年~、フジテレビ)が誕生したのも興味深い。また、明石家さんまによる『恋のから騒ぎ』(94年~)、『踊る!さんま御殿!!』(97年~、ともに日本テレビ)などを筆頭に「ひな壇トークバラエティ」も主流になっていき、やがて『アメトーク!』(2003年~、現『アメトーーク!』、テレビ朝日)が生まれていく。
また、『SMAP×SMAP』(96年~、フジテレビ)を皮切りに『学校へ行こう!』(97年~、TBS)や前出の『ガチンコ!』といったジャニーズアイドルが仕切るバラエティが当たり前のようにゴールデン・プライムタイムで放送されるようになっていった。さらに『ボキャブラ天国』シリーズ(92年~、フジテレビ)がきっかけになり、「若手芸人」という概念も認知されていった。
こうして90年代はテレビっ子たちの様々なニーズにピンポイントに刺さるような多種多様な番組が作られ、それぞれが内輪に入って前のめりに見ていたのだ。タイアップ商品が爆発的に売れていたのがそのひとつの証明だ。
テレビの大衆回帰
だが、2000年代になると、狭いニーズに合った番組を作っていては、視聴率は頭打ちになってしまう。なぜなら、テレビによって様々なカルチャーを知ったテレビっ子たちが皮肉にもインターネットの普及などによって、テレビを介さずとも、より深く容易にカルチャーの現場に接することができるようになったからだ。
そこでテレビは大衆に回帰していった。だが、時代を巻き戻すだけではうまくいくはずがない。そこでテレビと大衆の関係性を組み替えていくことになる。
昭和の頃、テレビは大衆の上にあったが、平成に入り、大衆と並走するようになった。同じ目線に立ち、少し先導しているような関係だった。2000年代になると、逆に大衆がテレビの上に立ったのだ。
象徴的なのは島田紳助による『クイズ!ヘキサゴン2』(05年~、フジテレビ)における「おバカブーム」だろう。視聴者の多くはテレビの内輪に入ることなく、バカにしながら見るようになった。わかりやすく誰もが楽しめる番組は、テレビっ子にとっては魅力の乏しいものになっていった。
一方で島田紳助は『M-1グランプリ』(01年~、ABC・テレビ朝日)を立ち上げる。『爆笑オンエアバトル』(99年~、NHK)、『エンタの神様』(03年~、日本テレビ)、『爆笑レッドカーペット』(07年~、フジテレビ)などのネタブームなども相まって、芸人の数が急増し、テレビの中でその地位も高まっていった。結果、かつてはビートたけしや島田紳助ら、ごく限られた特別な芸人にしか許されなかった情報・報道系番組のコメンテーターなどの仕事を中堅芸人までもがするようになっていった。
加えて、90年代後半に人気を呼んだドキュメントバラエティやひな壇トークバラエティ、そして『伊東家の食卓』(97年~、日本テレビ)や『トリビアの泉』(02年~、フジテレビ)といった雑学・情報バラエティがテレビの主流になっていった。それらはともに「リアル」が前提になっている。内輪の中で「ウソ」を前提に楽しんでいたそれまでとは明らかに変わったのだ。
「リアル」が前提ならば、正しくないものやウソは“否”となる。内輪に入らず共犯関係が築かれていなければなおさら。ヤラセなどもってのほかだ。テレビの地位が低くなった上で、相対的に地位が上がった芸人たち。そのいびつな構造の中で、芸人たちの言動がクレーム・炎上の対象になっていったのだ。極端に言えば、テレビが、「まちがいさがし」を楽しむように「まちがい」を見つけては、その「怒り」をぶつけるという装置になった。またテレビ側も「怒り」を「笑い」などに変換することなく、「怒り」を煽り、それをそのまま娯楽にするような番組が増えてきている。
「正しくなければテレビじゃない」時代
社会のムードもそれを後押しした。コンプライアンス遵守が叫ばれ、各種ハラスメントへの意識も高まった。それ自体は社会の成熟を示すいい方向であることは間違いないが、それが時に拡大解釈され表現を萎縮させる結果にもなっている。
決定的だったのが、2011年に起きた東日本大震災だろう。
「面白さ」や「楽しさ」といった「笑い」の価値が大きく揺らいでいった。かつて「面白さ」が第一優先であったのが、いまは「リアルさ」や「正しさ」「真面目さ」が最優先されるようになっていった。松本人志の『ワイドナショー』(13年~、フジテレビ)での発言がたびたび炎上するのは、そうした意識のズレによるものだろう。時事問題に対しあくまでも大喜利的な答えを出そうとする松本と、時事問題ならなおさら「正しさ」を求める視聴者との間の齟齬は大きい。「デイリー新潮」(17年10月4日)が指摘するように、いまテレビは、「楽しくなければテレビじゃない」から「正しくなければテレビじゃない」時代になったのだ。
だからといって、魅力的な番組がないかといえば、それは大きな間違いだ。
『水曜日のダウンタウン』(14年~、TBS)などを筆頭に、時代の変化に向き合いながら、様々な制約をギリギリ守りつつ、それをむしろ逆手にとって新たな面白さを生み出している番組は少なくない。また、霜降り明星やハナコといった新世代の芸人たちの登場も心強い。彼らの賞レースでの戴冠は、彼らの実力はもちろんだが、新しい時代を待ち望む気運が高まっている時代の後押しもあったのではないか。
よく「テレビ離れではなくテレビ受像機離れ」だと言われるが、テレビがもし「時代遅れ」と言われるのなら、それは「テレビ」というハードが時代遅れなのだ。ハードが時代遅れならソフトが時代遅れになってしまうのは自然なことだ。
個人視聴率やタイムシフト視聴率の導入など、ようやく時代の変化に合わせた指針が少しずつだが作られようとしている。NHKにおけるスマートフォン等によるネット同時配信の解禁も間近のようだ。まだまだ不十分とはいえ見逃し配信なども今後より一層充実していくだろう。そのようにしてテレビが時代に合った便利なものになれば、自ずとそのコンテンツも時代に合ったものとなり、その中から時代に残るものが続々と生まれてくるだろう。
「平成」が終わり新しい時代がやってくる。テレビの新時代の到来には、ハード面の革新が急務で不可欠だ。
【※この記事は、Yahoo!ニュース個人編集部とオーサーが内容に関して共同で企画し、オーサーが執筆したものです】