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「テレビで伝えるのは無理」動機も、毒物の鑑定も…ここまで不確かなのに林眞須美を死刑に処していいのか

斉藤博昭映画ジャーナリスト
『マミー』の二村真弘監督(撮影:筆者)

あの林眞須美は、無実なのに死刑を宣告されたのかも……。8/3から公開が始まった映画『マミー』は、今から26年前の1998年、日本中を震撼させた和歌山毒物カレー事件を振り返り、その衝撃を呼び戻しながら、もう一段階、別次元へと連れて行ってくれるドキュメンタリーだ。

2009年、林眞須美は最高裁で死刑が確定する。そして現時点で執行されていない。彼女は今も自身の無実を訴え続けているが、ニュースなどで当時の彼女の姿を見ていたわれわれの多くは、カレー事件に関して絶対に「有罪」だと信じ込んできた。その考えがいかに安直だったのか。『マミー』は激しく心を揺さぶってくる。

『マミー』を手がけたのは二村真弘監督。今から5年前のトークイベントで林眞須美の長男が、母の冤罪の可能性について語るのを聞き、取材を始めることになる。

「もう一度事件を調べ直し、再審が開始されるべきではないか。僕の中では、そこまで本作で伝えることができたと思っています」

二村監督は『マミー』への手応えを、そのように語る。

(c) 2024digTV
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夏祭りに用意されたカレーを食べ、67人が急性ヒ素中毒を発症、4人が死亡。そのカレーの番をしていた林眞須美は、知人男性への保険金詐欺事件とそれに絡む殺人未遂容疑で逮捕される。そこでもヒ素が使われ、夫の健治が過去に自らヒ素を服んで高度障害保険を受け取っていたことなども明らかになる。カレー事件で眞須美が疑われるのは必然のことだった。

「ヒ素の混入が発表され、保険金詐欺が明るみになり、林眞須美さんの自宅に取材陣が殺到し……。それをマスメディアが過剰なまでに報道し、眞須美さんがカレー事件の犯人とされる。そうした一連の流れを僕もそのまま受け止めていました」と、二村監督も当時の心境を振り返る。

テレビ番組の制作など自身がマスメディアの側に立つことになった二村監督が、和歌山毒物カレー事件の“矛盾”を知り、のめりこむようになったのも、ある意味、当然の流れだったのかもしれない。

「事件発生から報道合戦が始まり、逮捕、そして判決までの過程を、誰もがそのまま受け入れていることに危うさを感じたのです。事件について調べていくうちに、冤罪の可能性に気づきましたが、それは陰謀論や、ゴシップ的な情報からではありません。裁判でも、間違った証拠が提供されている事実が見つかってきたのです。ですから作品として伝えることで、まず事実を知ってもらいたい。われわれ人間が、いかに情報によってバイアスがかかりやすいのか。改めて立ち止まって考えてほしいのです」

カレー鍋の近くにいた人たちも検察側の陳述に疑問を

映画『マミー』は、そのバイアスをじわじわと解いていくのだが、林眞須美=カレー事件の真犯人という図式に、最も疑問が湧く点を、二村監督は次のように説明する。

「まず動機がはっきりしていません。裁判では検察側の冒頭陳述で、眞須美さんが遅れて(カレー鍋の置かれた)ガレージに来た時、先にいた主婦たちが彼女の陰口を言っていた、そこで怒りをおぼえてヒ素を鍋に入れた、と語られます。それを受けてメディアの記事で『林眞須美が激高』と書かれ、世間に広まりました。僕が取材でその主婦たちに話を聞いたところ、たしかに噂話をしていたのでヒヤッとはしたものの、眞須美さんが激高した様子には気付いてはいなかったとのこと。当時の取り調べでも、彼女たちは『怒っていた』などと答えておらず、検察の冒頭陳述を知り、『怒っていたの?』と逆に驚いたそうです。中には(眞須美さんが)周囲にも愛想が良く、腰の低い人だったと語る人もいました。つまり検察の推測が多分に含まれているのです。最終的に動機は未解明となったのですが、こうした印象操作が行われたことで、疑問も膨らんでいきました」

林眞須美が獄中から思いを綴った手紙 (c) 2024digTV
林眞須美が獄中から思いを綴った手紙 (c) 2024digTV

たしかにこの事件で最も疑問に残るのは「動機」だったと、改めて二村監督の言葉から認識させられる。そしてもうひとつ、重要な証拠への疑念も浮かび上がる。それは中毒および死亡の原因になった「ヒ素」だ。これについては映画『マミー』の中でも、どのように鑑定されたのかが詳しく描かれる。理化学研究所の大型放射光施設「SPring-8」での鑑定結果に、本作は疑義を呈するのである。

「最高裁の有罪の認定には3つの大きな根拠がありました。1つは眞須美さんのガレージでの不審な動きで、残りの2つがヒ素の科学鑑定に関する項目でした。事件現場の紙コップに残っていたヒ素と、眞須美さんの自宅にあったヒ素の成分が一致したこと。そして眞須美さんの頭髪からヒ素が検出されたことです。このうちヒ素の一致は、当時、最先端の科学を使って証明されたという触れ込みでした。しかしあの施設(SPring-8)は完成したばかりで、精度はあまり高くなかった。実際に使った人も、まだ不安定だったと言っている。そのあたりを、科学者の視点からの証言で盛り込むべきだと考えたわけです」

こうした二村監督のアプローチによって、では林眞須美は「シロ」だった、と断定されるわけではない。しかし証拠とされる項目にいくつも謎が残っている状態で、一人の人間を死刑に処していいのか、と『マミー』は訴える。

海外からの反響に期待して映画を完成

さらにこの『マミー』は、真相を追う二村監督の行動でも、意外な展開が用意される。ここは本編で確認してほしいが、その意味で単に事件を扱ったドキュメンタリーから飛躍して、別のテーマも立ち上がっていく。

「僕は東京に住んでいるので、取材のため1人で和歌山へ通いました。そうすると時には滞在が1ヶ月くらいになることもあり、いろいろわかっていくと、映画として冤罪だと言い切るための確定的な何かを掴みたいと、追い詰められた状況になったのも事実です。その部分は自戒も含め、マスコミの報道姿勢への批判が込められると信じ、作品に入れることにしたのです」

そのように振り返りつつ、完成した作品に関しては「陰謀論ではなく、決定的な何かを提示したいという思いは達成できた」と、二村監督は満足した表情も浮かべる。

最後に、なぜこの和歌山毒物カレー事件、および冤罪の可能性の問題を一本の映画で届けようと思ったのか、その根本を二村監督に尋ねた。

「これは国内のテレビ番組などで放映するのは難しい題材です(最高裁が出した死刑判決に疑問を呈するから)。ですから、たとえば伊藤詩織さんの性被害問題と同じように、海外の反響によって、問題が可視化されればいいと考えました。その意味で、映画として作った方が海外に持って行きやすいわけです」

テレビでは不可能かもしれないが、映画では社会を変えられるーー。二村監督の信念が込められた『マミー』を、どう受け止めるべきか。われわれの感覚が試される。

面会に訪れる夫の林健治と長男の浩次(仮名) (c) 2024digTV
面会に訪れる夫の林健治と長男の浩次(仮名) (c) 2024digTV

二村真弘(にむら・まさひろ)

1978年愛知県生まれ。日本映画学校(現・日本映画大学)で学び、2001年よりドキュメンタリージャパンに参加、11年からフリーランスとしてテレビ番組の制作を手掛ける。統合失調症からの回復を引き出す日本独自の手法を描いた「見る当事者研究」(15/DVD作品)、東日本大震災の被災者たちが身内にだけ語ってきた“笑える話”を聞き取った「千原ジュニアがゆく 聞いてけろ おもしぇ~話」(17/NHK総合)、ネジ一本から手作りする独立時計師を1年以上追った「情熱大陸/菊野昌宏」(19/MBS)、講談師・神田松之丞の真打昇進、6代目神田伯山襲名までの半年を追った「情熱大陸/松之丞改め神田伯山」(20/MBS)、我が子が不登校になったことをきっかけに学校のあり方、家族のあり方を描いたセルフドキュメンタリー「不登校がやってきた」シリーズ(21~/NHK BS1)など。本作『マミー』は初映画監督作品。

『マミー』8月3日(土)より、[東京]シアター・イメージフォーラム、[大阪]第七藝術劇場ほか全国順次公開

映画ジャーナリスト

1997年にフリーとなり、映画専門のライター、インタビュアーとして活躍。おもな執筆媒体は、シネマトゥデイ、Safari、スクリーン、キネマ旬報、VOGUE、シネコンウォーカー、MOVIE WALKER PRESS、スカパー!、GQ JAPAN、 CINEMORE、BANGER!!!、劇場用パンフレットなど。日本映画ペンクラブ会員。全米の映画賞、クリティックス・チョイス・アワード(CCA)に投票する同会員。コロンビアのカルタヘナ国際映画祭、釜山国際映画祭では審査員も経験。「リリーのすべて」(早川書房刊)など翻訳も手がける。連絡先 irishgreenday@gmail.com

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