BRICS銀行の創設がもつ意味:IMF/世銀はなぜ嫌われるか(その2)
IBSAにとっての引き金
とはいえ、中ロに付き合って欧米と正面衝突する気はないにせよ、そして新開発銀行の設立をめぐって中国の影響力が大きくなりすぎないように注意したにせよ、IBSAにも潜在的には西側主導の国際秩序に対する警戒感が強くあります。そのIBSAをして、新開発銀行の設立に積極的に向かわせた引き金として、先述のIMF資本枠増加のとん挫だけでなく、米国の金融政策があげられます。
2013年5月、FRB(米連邦準備理事会)のバーナンキ議長(当時)が量的緩和の縮小に言及。世界金融危機以降、景気の下支えのために増やしていたドルの発行量を縮小させるという方針は、それまで経済成長を見込んで新興国に流れ込んでいたドルの流れを逆流させる契機になりました。その余波で特に著しい下落が発生し得るとみられる5つの通貨(フラジャイル・ファイブ)には、ブラジル・レアル、インド・ルピー、南ア・ランドとBRICS勢が含まれました。
現在、新興国の通貨は総じて不安定ですが、そこには米国の金融政策以外の要素もあるため、量的緩和の縮小で「新興国売り」が広がるという見方に否定的な向きもあります。しかし、少なくとも昨年の段階で、新興国側がこれに危機感を募らせたことは確かでしょう。
流動的な資金は新興国にとって、経済成長を促す一方で、経済の不安定化をもたらすものです。そして、経済の不安定化は外部の影響力の伸張を許す契機になり得ます。1997年のアジア通貨危機の際、IMFはタイやインドネシア、韓国に対して、構造調整計画と同様に、ひたすら緊縮財政を要求しながらも、流動的な資金のコントロールに関しては「市場原理に反する」と否定的でした。これを拒絶し、海外資本の流通規制に踏み切ったマハティール首相指導下のマレーシアが、IMFや米国政府からの非難を浴びながらも、IMFから資金協力を受けた各国より早く回復したことを、多くの新興国当局者はみていたことでしょう。これに鑑みれば、FRBの量的緩和縮小はBRICSなかでもIBSAをして、IMF/世銀以外の選択肢を求めさせる、直接的な契機になったといえるでしょう。
新開発銀行の創設が予期させる西側の影響力の縮小
もちろん、新開発銀行の設立によって、IMFや世銀が即座にその座を奪われることはないとみられます。資本金500億ドルの新開発銀行に対して、IMFの出資割当額総計は3,680億ドル(2014年3月6日現在)、世界銀行の利用可能資本は4,086億ドル(2014年3月31日現在)。金額で比較すれば、その差は歴然です。ただし、新興国の経済成長のスピードと、今後BRICS以外の加盟国が増えるであろうことを考え合わせると、将来的に新開発銀行の資本規模がIMF/世銀により近づくことは、充分に予想されます。
そして、それより早い時期に顕在化することとして予測されるのは、西側先進国の影響力のさらなる衰退です。
西側先進国とBRICSは、その内部の温度差はあれ、自らの影響力を保持するために、その他の多くの国すなわち開発途上国の支持を必要とする点では共通しています。国連加盟国は現在193ヵ国あり、そのうち「西側先進国」と呼べるDAC(開発援助委員会)加盟国は25か国。BRICS5ヵ国を除く163ヵ国は、それぞれの支持をめぐる争奪の場になっており、資源や市場を確保するという経済的要請は、これを加速させているといえるでしょう。
アプローチする主体が複数ある場合、その選択権をもつ者の立場は強くなります。それはちょうど、『竹取物語』で5人の公卿がかぐや姫の無理難題に苦労したのと同じです。つまり、IMF/世銀に代表される西側主導の金融レジームと、新開発銀行を中心とする新興金融レジームのはざまで、開発途上国は融資の対象であるという意味で立場は弱くなりがちですが、他方で選択権をもつことで、その発言力は実際の国力以上のものになり得ます。先ほどのダールの定義を思い起こせば、弱い立場のはずの開発途上国が、実は大国に対して、小さくない権力をもつことにもなり得るといえるでしょう。
冷戦構造との共通点
これは冷戦期にも通じる現象でした。実際、欧米諸国は冷戦期、開発途上国に対して人権保護や民主化といった政治的条件を援助につけることは、ほとんどありませんでした。1980年代初頭からの構造調整計画においても、融資に関して経済的な条件はあったにせよ、内政が融資の暗黙の条件になったのは、冷戦終結後のことでした。つまり、「やかましいことを言って東側に付かれると困る」という判断のもと、西側諸国は相手国の内政を援助の条件とすることは控えていたといえます。言い換えると、アプローチする主体が複数ある状況が、開発途上国の自由度を高くしていたのです。
1989年の冷戦の終結は、この状況を一変させました。翌1990年、米英仏はそれぞれ、人権保護や民主化を援助の前提条件とする姿勢を打ち出しました。1991年のソ連の崩壊で、その流れは加速。良くも悪くも、(ウクライナ情勢をめぐるロシアへの制裁が欧米諸国と比べて抑えぎみであることに象徴されるように)常日頃は他国の内政に積極的に関与しようとしない日本政府でさえ、1992年に援助のガイドラインとして発表した「ODA大綱」のなかで、「人権、民主主義といった普遍的価値」を条件に盛り込んだことは、当時の思潮を象徴します(2003年に改訂)。
「東」の消滅は開発途上国にとって、融資や援助の主体が西側だけになったことを意味しました。これにより、冷戦期の力関係は逆転し、資金力のある西側先進国の影響力が、そのまま開発途上国に及ぼされることになったのです。
そのメンバーに重複するところがあるにせよ、BRICSと冷戦期の東側陣営を同列に扱うことはできません。BRICSには共有するイデオロギーはなく、また当時のソ連のような、自他ともに認めるリーダーもありません。経済力で中国が圧倒的に大きいとはいえ、先ほど述べたIBSAのように、必ずしも全ての歩調を揃えようとする意思も見受けられません。ただし、IMF/世銀に象徴される西側主導の国際金融レジームに対する、代替となる選択肢(alternative)を提供している点で、構図は同じといえます。
アフリカから西側への異議申し立て
そのなかで、新興国には程遠い開発途上国が、西側先進国の圧倒的な影響力に異議申し立てをする兆項は、新開発銀行の設立以前から既にみられていました。
冷戦終結直後、「世界の最貧地帯」で援助への依存度が高いアフリカ各国は、雪崩を打って民主化に向かいました。サハラ以南アフリカで複数政党制を採用する国は、1989年段階で8ヵ国に過ぎませんでしたが、1995年には35ヵ国にまで急増しました。これは、圧倒的な西側の影響力のもとで、軍事政権や一党制の支配者たちが自らの「延命措置」として、自ら率先して選挙の実施に踏み切ったことを示します。同時にこれは、1990年代のアフリカ諸国が否応なく西側主導の国際秩序に従わざるを得なかったことを象徴するといえます。
ところが、2000年代以降、資源と市場を求めて新興国のアフリカ進出が本格化。なかでも中国は、貿易や投資だけでなく、近年では開発援助や国連のPKO(平和維持部隊)派遣でも、圧倒的な存在感を示すに至っています。中国をはじめとする新興国は、西側先進国やIMF/世銀と異なり、援助や融資に政治的な条件を課すことは稀です。これが多くのアフリカ諸国、なかでも選挙は実施していても事実上の権威主義体制のもとにある国の政府にとって魅力的であることは、言うまでもありません。
中国に限らず、新興国が大挙してアプローチするなか、アフリカでは西側一辺倒だった姿勢に変化が見られ始めています。例えば、同性愛の規制は、近年アフリカ各国が欧米諸国と対立しがちなテーマの一つです。世界で同性愛を取り締まる法律がある国は76ヵ国ありますが、このうち36ヵ国はアフリカです。アジアや中東に比べて、良くも悪くもアフリカは西欧の影響が強く、そこに冷戦後の圧倒的な影響力があったため、いわゆるグローバル・スタンダードに合わせる形で人権保護の法令を備えている国は珍しくありません。それに鑑みれば、同性愛の取り締まりが急に激しさを増した近年の動きからは、普遍的な人権規範の強要への「アフリカらしさ」を大義とする文化的な反動と同時に、それを可能にする力関係の変化、すなわち新興国の進出という条件を見出すことができるでしょう。
既に生まれていたこのような兆候を考えれば、「代替となる選択肢」である新開発銀行の設立は、西側先進国に対する異議申し立ての機会を、これまで以上に開発途上国に提供する契機になり得るといえます。その意味で、国際秩序のさらなる流動化は避けられないでしょう。
知性の悲観主義、意志の楽観主義
英紙フィナンシャル・タイムズのコラムでDavid Pillingは、新開発銀行の設立は「去りゆく時代の現実を反映したもの」であり、「未来を知るためのヒント」と述べています。Pilling の見解は、大筋で賛同できるものです。
BRICSが新開発銀行の創設に踏み切った大きな背景には、これら5ヵ国に代表される新興国の経済成長だけでなく、西側主導の国際金融レジームに対する広範な不満、さらに(IMF議決権の問題にみられるように)BRICSの公的な異議申し立てを抑え込もうとした米国の反応など、幾つものも要因がありました。しかし、いずれにせよ、将来に過去を振り返ったとき、新開発銀行の創設が一つの時代の画期になるであろうことは、想像に難くありません。
ただし、「西側先進国はひたすら凋落する」と単に将来を悲観する必要もないでしょう。
ここまでの文脈に照らしていえば、多くの開発途上国は自らの存立を望んでいるのであり、国によって濃淡はあるにせよ、西側であれBRICSであれ、いずれか一方が圧倒的な支配力をもつことを願っているわけではありません。
ここで重要なことは、インターネットの普及によって、多くの開発途上国でも為政者が日常的に国民からの批判にさらされるようになっていることです。それは一方で政治の不安定化や情報操作などの危険性をはらむ一方、少なくとも政府がこれまで以上に国民からの支持に敏感にならざるを得ない状況を生んでいることは確かです。中国政府がアフリカで自らの立ち居振る舞いに気をつけるようになった契機は、西側先進国からの「新植民地主義」批判もさりながら、現地における反中世論の噴出にありました。
「主権平等の観点から相手国の内政に一切口を出さず、自らが経済的利益を追求するなかで、相手国の経済に正の影響をもたらす」というBRICSの最大公約数的なアプローチは、確かに多くの開発途上国政府にとって心地よいものでしょう。しかし、汚職が蔓延したり、権力者が地縁・血縁のある者を優遇したりする状況が多いなか、相手国の国民にとっては、必ずしもそうとは限りません。その意味で、西側先進国がこれまで以上に開発途上国の草の根に働きかけるのであれば、それは「貧困削減」という利他的な目的と、「自らの影響力」という利己的な目的が合一したものといえるでしょう。
さらに重要なことは、BRICSのもつ魅力、いわゆる「ソフトパワー」には、今のところ限界があるということです。今年出席したあるワークショップで、中国人の若い研究者が「冷戦時代、中国は『反植民地主義』を奉じ、西側に支援される独裁政権と対決する武装勢力を支援していたが、むしろその頃の方がアフリカの一般の人々に訴えかける理念をもっていた」と嘆いていたのは印象的でした。多くの開発途上国にとって、今のBRICSの魅力はその経済力にあるのであり、それ以外の要素はほとんど見当たらないといえるでしょう。
その意味で、いくつかの疑問符が付くとはいえ、欧米諸国が人権や民主主義の理念を波及させてきたことは確かで、何らの理念も奉じないことが、常に有効とは限りません。とはいえ、1990年代のように、融資や援助で頭を押さえつけるようにして、これらの理念を説教することが、(それが正しいことかという疑問を提起するだけでなく)その後の反動を招いたことに鑑みれば、新開発銀行の設立は西側先進国自身にとって大きな挑戦であると同時に、自らのアプローチを再考させる契機になるといえるでしょう。そして、それは西側先進国の一国でありながらも従来は特定の価値を称揚することを控えていたにも関わらず、周回遅れで「自由、民主主義、法の支配」の価値を声高に、しかもあからさまに特定の国に対してだけを説こうとする政権を擁する日本にとっても同様といえるのです。