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「令和の寅子」と女性週刊誌で評された鴨志田祐美弁護士の「虎に翼」論が秀逸だ

篠田博之月刊『創』編集長
NHKのホームページより(筆者撮影)

 4月からスタートしたNHKの連続テレビ小説「虎に翼」が絶好調だ。話題を呼んで週を追うごとに視聴率もあがっており5月13日の放送は平均視聴率(ビデオリサーチ調べ、関東地区)が世帯17.1%を記録し、番組最高を更新した。

 今期は大河ドラマ「光る君へ」も好調だが、2つの番組は女性脚本であることなど幾つか共通点がある。「光る君へ」も頭脳明晰な女性主人公が父親に「お前が男だったら…」と言われて育つし、「虎に翼」では弁護士になっても女性であることを理由になかなか仕事がとれないなど女性が虐げられていた時代をリアルに描写し、それをどう突破していくかという物語だ。主人公の猪爪寅子はそうした状況を突破していくのだが、朝ドラのメイン視聴者である女性たちがそれを見て留飲を下げるというのは、「半沢直樹」の女性版ともいえる。

 放送が始まった1週目から、女性の社会的地位が貶められているという時代状況が、これでもかと言わんばかりに描かれていく。描かれている時代は1930年代だが、戦後にも相通じるような女性差別のエピソードが「あるある感」満載で描かれるから、視聴者は展開が気にならざるをえない。人気は急上昇しており、筆者の周囲でもかなりの勢いで話題が広がっている。

『女性自身』5月28日号(筆者撮影)
『女性自身』5月28日号(筆者撮影)

 5月14日発売の『女性自身』5月28日号では「弱者を守る『令和の寅子たち』」と題して3人の女性弁護士がとりあげられているが、その一人が月刊『創』(つくる)で「再審弁護人のベレー帽日記」を連載している鴨志田祐美弁護士だ。大崎事件などの再審弁護人を務めるだけでなく、今は「再審法改正」を日弁連のなかで進めるなど八面六臂(はちめんろっぴ)の活躍を続けている。鴨志田弁護士の「虎に翼」論は興味を持つ人も多いので、ここに全文紹介しよう。「ベレー帽日記」とは、鴨志田さんが被っているシンボルマークのベレー帽からつけたタイトルだが、今回の「虎に翼」論の最後で、ドラマのモデルとなった三淵嘉子さんもベレー帽を被っていたという記述も出てくる。

 では以下、鴨志田弁護士の「虎に翼」論だ。

再審法改正をめぐる日弁連の集会で発言する鴨志田祐美弁護士(筆者撮影)
再審法改正をめぐる日弁連の集会で発言する鴨志田祐美弁護士(筆者撮影)

「虎に翼」と刑事司法 鴨志田祐美

 4月からスタートしたNHKの連続テレビ小説「虎に翼」が快調だ。主人公で伊藤沙莉が演じる猪爪寅子のモデルは、わが国で女性初の弁護士となった3人のうちの一人で、後に女性初の裁判所長となる三淵嘉子さんである。

 ドラマの前半では、女学校を卒業した寅子が法律の道を目指すことを決意し、法改正により、女性の弁護士資格取得が可能となる見通しとなったことを受けて設置された大学専門部女子部法科を経て、男子学生が学ぶ法学部に編入。卒業後、高等文官試験司法科(現在の司法試験)に合格して弁護士となるプロセスが描かれ、後半では、戦後、裁判官となった寅子が、日本国憲法で個人の尊厳と男女平等が保障された新しい社会で、民法の家族法や家事手続きを定めた家事審判法の改正、そして、家庭内の紛争と少年事件への対応に特化した、新たな裁判所としての家庭裁判所の創設に主導的な役割を果たしていく姿が描かれると予想される。

 司法が舞台の朝ドラは1996年の「ひまわり」以来、実に28年ぶりである。近時は弁護士や裁判官を主人公とするドラマも増え、冤罪、再審にまで言及するものも出てきているとはいえ、昭和初期から戦後にかけて、という時代背景の中での司法ドラマが、現代のお茶の間でどう受け止められるだろうかと案じつつ、視聴し始めた。本稿執筆時点でドラマは第4週までが終了したが、いい意味で想定をはるかに超える反響を呼んでいる。

 視聴者の共感を呼んでいるのは、女性への蔑視や差別が人々の意識やしきたり、法や制度の隅々までに蔓延し、女性たち自身もその価値観を諦めや絶望とともに受け入れている状況のもとで、その圧倒的な理不尽に「はて?」と立ち止まり首を傾げ、わずかずつでも現状打破を試みようともがく寅子の姿である。優秀な成績で女学校を出ても、「頭の悪い女のふりをして結婚し家庭に入るのが幸せ」と決めつけられて納得できず、「地獄への道」である法学生になったものの、人々の生活を守る武器となるはずの法律は、婚姻中の妻を「無能力者」と規定して財産管理権を著しく制限し、女性に門戸を広げるはずの弁護士法改正もなかなか実現しない。厳しい状況のもとで脱落者が相次ぐ中、女子部存続のための起死回生の企画として行った法廷劇が男子学生の心無いヤジで台無しにされたとき、寅子に法律への道を勧めた教授は、男子学生を制止する行動も取れず、小さな咳払いしかできない。しかもその法廷劇の元となった事例を、学長が「愚かでか弱い女性を守る女性法律家」を印象付けるために改変していたことまで発覚する。表向きは女性の社会進出を歓迎するポーズを取りながら、本音では女性が自分と同じ世界で対等に活躍することなど想定すらしていない男性社会を、吉田恵里香氏の脚本が見事にあぶり出している。

 法律家を目指して学び舎に集う女子学生たちは、それぞれに過酷な生い立ちや環境を背負っていることも次第に明らかにされるが、「虎に翼」で描かれるこれらの状況は、現代の日本社会にも厳然と残っている。ジェンダーギャップ指数が146カ国中125位(2023年)と先進国中最低の日本のあちこちで、寅子たちと同じ圧倒的な理不尽を目の前にして、傷つき、闘い、道を切り開いた多くの女性たちが、毎朝、寅子たちに自らの姿を重ね合わせながら、固唾を飲んでドラマの展開を見守っているのだ。

 さて、寅子が弁護士になるまでのプロセスが描かれているドラマの前半を見ていると、そこにとどまらず、日本の司法制度の歴史そのものを垣間見せようという制作側の意図もうかがえる。寅子たちが法廷を傍聴したシーンで出てくる、別居した妻が夫に対し、嫁入り時に持参した振袖などの私物の返還を求めた裁判や、法廷劇の脚本に取り上げられた事例は、いずれも実際の裁判例をベースとしている。そして、第4週の終盤で、寅子の父で帝都銀行の経理課長である猪爪直言が贈賄容疑で逮捕・勾留されるという衝撃的な展開を見せたことで、昭和初期の犯罪捜査や取調べ、刑事裁判の実情がドラマで描かれていくのではないかと予測される。

 ドラマのモデルである三淵(独身時代の姓は武藤)嘉子の父・貞雄は、ドラマと同様銀行員であったが、贈賄容疑で逮捕・勾留された事実はない。だから、この設定は完全にフィクションである。一方、直言が逮捕された事件は、ナレーションで「共亜事件」という名で呼ばれ、直言の勤務先である帝都銀行に続き、関係会社の重役、大蔵省の官僚、現役大臣などが次々と逮捕されたと説明された。これは、1934年に起きた帝人事件をモデルにしていることが明らかである。

 帝人事件とは、帝国人造絹糸株式会社(帝人)の株式の売買をめぐる疑獄事件である。贈収賄の嫌疑は、帝人の株式を保有していた台湾銀行と帝人の首脳陣、さらには大蔵官僚や時の斎藤実内閣を構成する大臣にまで波及し、内閣は総辞職に追い込まれた。しかし、斎藤内閣の倒壊を狙った政界、軍部、司法界の重鎮などによる陰謀説が浮上し、また、逮捕・勾留された被疑者たちに対する検察の過酷な取調べの実態が明らかとなり、世論からの非難を浴びた。結局、265回にわたる公判を経て、1937年12月、起訴された全員に無罪判決が言い渡され、確定した。判決の中で、事件は「空中楼閣」であったとの言及もあった。事件そのものをでっち上げた「フレームアップ事件」だったのである。

 本稿執筆時点で、事件が今後どのように描かれるか、また、直言が無罪となるかどうかは分からないが、お茶の間の視聴者に、当時の日本の刑事司法の実態がつまびらかになることを心から期待したい。なぜなら、それは「遠い昔の歴史上の物語」ではなく、「現代日本の刑事司法の闇」に直結するからだ。

 明治の初めまで、刑事裁判で有罪の証拠とされたのは本人の自白のみだった。そして自白獲得のための拷問が公然と行われていた。裁判が証拠によるべきとされたのは1876(明治9)年、拷問が法制度として廃止されたのは1879(明治12)年である。それでも「証拠」の中には当然に自白も含まれたため、捜査や裁判において自白の獲得が極めて重要視される点はその後も変わらなかった。

 また、当時の刑事裁判には、ドラマでも解説があったとおり「予審」制度が存在した。予審とは、有罪無罪の判断の場である通常の裁判の前の「下調べ」として、予審判事と呼ばれる裁判官が被告人や証人を尋問する手続きである。当時の検察官は、起訴するか否かを決定する権限しか持たない一方、予審判事は証拠の収集や、被告人の勾留など強大な権限を持っていた。被告人は弁護人の援助も受けられない密室で予審判事の厳しい質問を受け、そこで自白すると「訊問調書」と呼ばれる書面に記録された。これがのちの公判で有力な有罪証拠となったことは言うまでもない。

 予審判事の尋問の際に作成される「訊問調書」に対し、捜査機関による被疑者の取調べ段階で警察官や検察官によって作成された自白調書は「聴取書」と呼ばれた。「独白体」という、被疑者がひとり語りしているような文体で書かれた聴取書は、訊問調書とは明確に区別され、原則として裁判の証拠とすることはできないと定められていた。しかし、被疑者が承諾して任意に供述した場合、例外的に証拠とすることができるとされたことで、捜査段階での非公式な記録に過ぎなかった聴取書が、次第に有罪の証拠として裁判で用いられるようになった。予審判事も聴取書を読んで「予習」した上で被告人を問い詰め、「訊問調書」を作成する。公判ではそのようにして作成された訊問調書と聴取書が、ともに法廷に提出され、裁判官が自由な裁量で聴取書の任意性を判断するのであるから、訊問調書と相まって、聴取書も簡単に有罪証拠として採用された。こうして、自白調書偏重の刑事司法が出来上がっていった。

 聴取書が刑事裁判の証拠として用いられることが常態化したことで、警察・検察が自白獲得のために行う過酷な取調べもエスカレートした。大正時代にはこれが「人権蹂躙問題」として問題視され、弁護士協会が全国的なキャンペーンを張る中で、帝国議会でもこの問題が取り上げられた。人権蹂躙問題の解決のために、被疑者の取調べに隣人や弁護人の立会を認めること、聴取書や訊問調書は証拠から排除することが提案された。しかし、これらの論戦の渦中で1922(大正11)年に制定された大正刑事訴訟法ではこれらの提案は採用されなかった(ただし、聴取書については「任意性」が認められなくても原則として証拠とできないことが規定された)。帝人事件はこのような時代に起こった冤罪疑獄事件である。

 一方、聴取書の証拠能力を制限する改正に当時の司法省(検察官僚)が反発し、聴取書の証拠能力制限を撤廃して、採否は「裁判所の自由な裁量に委ねるべき」と主張した。また、人権蹂躙と批判された原因は警察に問題があるなどとして、検察の権限強化を主張し始めた。そのような状況のもとで日本は徐々に戦時体制へと進み、思想犯の処罰のため、拷問による自白獲得が公然と行われるようになり、治安維持のために検察官の権限も強化された。そして1942年の戦時刑事特別法で、捜査段階の聴取書も含め、自白調書が無条件に証拠と認められるようになった。刑事司法は、もはや裁判とは名ばかりの、国家による粛清のためのシステムと化したのである。

 戦後、日本国憲法が制定され、戦前の刑事手続はすべてリニューアルし、被疑者・被告人の人権を保障する適正な手続きによる刑事司法が実現した、と多くの人が考えているかもしれない。しかし、戦後の混乱期における治安維持の要請から、検察官に戦前の予審判事と同様の強大な権限を与えた状態で当事者主義が採用されたことで、「強すぎる検察」に「有罪は勝ち、無罪は負け」との企業風土が醸成された。検察官が自らの見立てたストーリーに沿った捜査、証拠獲得を強行することで、いくつもの冤罪が生まれた。日本国憲法のもとで、捜査機関の作成した供述調書は原則として証拠から排除されたが(伝聞法則)、特に検察官調書に広範な例外を認めたため、戦前の聴取書と同じ「独白体」による「作文調書」が今もなお、有罪の証拠として採用されている。一部事件に取調べの録音録画が採用されたが、大正時代に提案された「被疑者取調べへの弁護人の立会い」は未だ法制化に至っていない。帝人事件当時の刑事手続は「遠い昔の物語」ではない。

 そしてもう一つ。寅子たちが大学で法律を学んだ時代の刑事訴訟法(大正刑訴法)に規定されていた再審に関する規定は、現代もほぼそのままであることを忘れてはならない。女性蔑視と差別が今もなお厳然と残っているのと同じぐらい圧倒的に理不尽な再審制度も、1世紀の時を経てもなお、変わらずにいるのだ。

 三淵さんは定年退官のときに赤いベレー帽を被っていた。筆者が「ベレー帽の先輩」を敬愛するのは、「女性初」だからでも「女性の代弁者」だからでもない。救うべき弱者を現状の法制度が救えないのなら、その法制度を変えるために闘い続けた「ヒューマニズム」ゆえである。

月刊『創』編集長

月刊『創』編集長・篠田博之1951年茨城県生まれ。一橋大卒。1981年より月刊『創』(つくる)編集長。82年に創出版を設立、現在、代表も兼務。東京新聞にコラム「週刊誌を読む」を十数年にわたり連載。北海道新聞、中国新聞などにも転載されている。日本ペンクラブ言論表現委員会副委員長。東京経済大学大学院講師。著書は『増補版 ドキュメント死刑囚』(ちくま新書)、『生涯編集者』(創出版)他共著多数。専門はメディア批評だが、宮崎勤死刑囚(既に執行)と12年間関わり、和歌山カレー事件の林眞須美死刑囚とも10年以上にわたり接触。その他、元オウム麻原教祖の三女など、多くの事件当事者の手記を『創』に掲載してきた。

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