Wリーグから3x3へ転向。オリンピック出場に選手生命をかける矢野良子の生き方<インタビュー前編>
<インタビュー前編>Wリーグ20年間と忘れられないアテネ五輪
今年3月にWリーグファイナルを戦っていた選手が、3ヶ月後の6月には3x3(スリーバイスリー、3人制バスケットボール)のワールドカップに日本代表選手として出場。そして今は国内を転戦し、3x3の普及活動に追われる毎日――。
この驚くべき経歴を持つ選手は矢野良子、38歳。昨シーズン(2016-2017)をもってWリーグのトヨタ自動車アンテロープスを退団し、3x3に転向した女子バスケットボール界のベテラン選手だ。Wリーグで培ったシュート力と経験を買われ、転向してすぐにワールドカップ代表のメンバーに選出されたことからも、3x3界では大きな期待がかけられていることがわかる。
矢野良子は20年間にわたり、JX-ENEOS(ジャバンエナジー、JOMO)、富士通、そしてトヨタ自動車と在籍した3チームを優勝に導き「優勝請負人」と呼ばれた。Wリーグで、日本代表で、数々の名勝負を繰り広げてきたことは多くのファンの脳裏に焼き付いているだろう。とくに名勝負としてあげられるのは2004年1月、仙台で開催されたアテネ五輪アジア予選(FIBAアジア選手権)。準決勝の韓国戦で再延長にもつれながら8本の3ポイントを含む34得点を決めて勝利し、五輪切符をもぎ取った『仙台の奇跡』があげられる。
しかし、本人にとって一番忘れられない試合は、勝った試合ではなく、負けた“あの”試合だという。2004年アテネオリンピック、予選ラウンド最終戦のギリシャ戦だ。
勝ったほうが決勝トーナメントに進出する大一番。ホームのギリシャ応援団が発する地鳴りのような大声援が響く中で、逆転を目指して打った矢野の3ポイントは無情にも外れ、91-93の2点差でタイムアップ。決勝トーナメント進出はならなかった。
「あの入らなかったシュートがあったから、私は今まで現役にこだわってきたんです。もう一度、もう一度、オリンピックに出たかったから」――。
今後は3x3の選手として東京オリンピック出場を目指すことを決意した矢野良子に、Wリーグでの20年間と3x3でのオリンピック出場にかける思いを語ってもらった。
※矢野選手はインタビューでは3x3(スリーバイスリー)のことを「スリーバイ」と語っているので、文中ではそのまま表記。
Wリーグ20年間、在籍した3つのチームで優勝。「達成感はあります」
――Wリーグ20年間お疲れ様でした。Wリーグのトヨタ自動車を退団し、3x3に転向した理由を聞かせてください。
3x3でオリンピックに出たい気持ちが強かったからです。スリーバイがオリンピックの正式種目になると言われていた中で、数年前からシーズンオフにはスリーバイの試合を観戦したり、イベントに何回か出させてもらったりしていました。2年前くらいからは、スリーバイの強化担当の方に「近いうちに本格的に参戦したい」という意志表示を伝えていました。
私にとって一番よかったのは、状況が許すならばですが、Wリーグとスリーバイを両立することでしたが、それは難しかったですね。昨シーズンが終わる前に今年のワールドカップ枠があると聞いていたこともあり、今の日本のレベルがどれくらいなのか知りたいのもあったから、やるなら今だと思いました。またスリーバイの活動をするなら個人ポイントを稼いで実績を作らないといけないし、オリンピックの2年前からは本格的にやらないと間に合わないので、今やろうと決心しました。Wリーグを辞めてスリーバイにいくと発表したら、みんなに「引退するんですか?」と聞かれるんですけど、私はそんな気はないです。引退ではなく、スリーバイに転向という形ですね。
――Wリーグで20年間活動。ここまで長く続けられた秘訣は何でしょうか。
気づいたら20年になっていましたね。20年も続けられたのは、チームを移籍したからだと思っている自分がいます。移籍するたびに、その時の新たな決意があってチャレンジしています。JXで20年ずっとやれたかといえば、絶対にそれは無理だし、やっていないと思う。だから移籍をして、そのたびに挑戦できて良かったです。最後はもうちょっとだけWリーグでやれたら…という思いもあるにはあるんですが、自分で決めたことなので。
――Wリーグでは所属した全チームで優勝。それぞれのチームに「初優勝」をもたらしました。達成感はありますか?
すごくありますね。富士通はフリーランスな動きの中で攻めるバスケットで私には合っていたし、メンバーも同年代が多くて意気投合し、オールジャパンでもリーグでも優勝できました。トヨタではチョンさん(チョン・ヘイル=現シャンソン化粧品ヘッドコーチ)が考えるシステム的なバスケが最初は慣れなくて、勝てなくて。でも今まで以上にチームプレーを重視するようになり、最終的には自分たちの形ができて、オールジャパンで1回だけの優勝でしたけど、達成感はあります。トヨタも富士通もチームのスタイルが違う中で自分の役割を探してやり切り、その中で優勝できたということは、本当にやりがいがありました。
――矢野選手は移籍をするたびに自身の経験を生かし、チームメイトの心構えから変えていきました。富士通では食事内容から変え、トヨタでは大舞台のキャリアのない選手に『勝つマインド』を植え付けていったり。そうしてチームを改革していったことも挑戦だったのではないですか。
富士通への移籍は、あの時代のあのメンバーだったら勝てると思い、移籍先に選んだのがありますね。富士通の選手たちは勝ち方を知らなかっただけで、勝って当然のメンバーだと思っていたので、すごく伸びていきました。トヨタもそうです。勝つのを怖がっていたところがありましたが、ファイナルに何度か出ることで、その舞台を楽しもうと話をしました。みんな勝ち方を覚えて強くなったんです。チームが成長していったから達成感があるのだと思います。
やり残したアテネでの後悔と断ち切れないオリンピックへの思い
――20年間のWリーグや日本代表の中で、特に印象深く残っていることは何ですか?
3チームで優勝できたのはうれしかったし、それぞれに思い出があって、どれか一つには決められないですが……。自分がベストパフォーマンスを発揮した中で何が忘れられないかといったら、やっぱりアテネオリンピック。中でもいつも思い出すのはギリシャ戦です。ギリシャ戦で自分が打った最後のシュートは今でもフラッシュバックで出てきます。アテネで引退する先輩もいたのに、自分のシュートが決まらなくて負けてしまい、それも申し訳なくて思い出します。あれはもう、世の中の人が忘れても、私は絶対に忘れない。忘れるわけがない試合なんです。
――ギリシャ戦は勝ったほうが決勝トーナメント進出という大激闘。日本女子バスケの歴史上でも、13年経った今でも忘れることができない試合です。日本は出足が悪くて追い上げて、2点差に迫ったところで、矢野選手が逆転をめがけて最後にシュートを打ちました。最後のシュートを回想してもらえますか。
最後のシュートは、フォーメーションでは私が打つ予定ではなかったんです。私が空いたので、サンさん(楠田香穂里)からパスが回ってきたという感じでコーナーから3ポイントを打ちました。だから準備していたシュートではなかったんです。結局、その甘さが出たのかな。打ったけど、そんな気持ちの入っていないシュートなんて入るわけがないですよね。
――予定されていたフォーメーションではなくても、矢野選手が打てる状況ではありました。そこで躊躇せずに打った。それでも気持ちが入っていなかったですか?
私はいつでも「自分が決めてやる」と思ってプレーしています。でもあの瞬間だけは決めてやると思っていなかった。そう思って打たなかったことが……後悔でしかないです。あの時のフォーメーションはピックプレーからエースさん(大山妙子)か、マックさん(小磯典子)が決めることでした。2点差だったから同点でもよかったけれど、3点と2点の両方を打てる選択肢を作っていました。それで最後のプレーが伝えられて「自分じゃない」と思ったのか、なぜかギラギラしたものがなかったんです。
でも状況としては自分が空くことだってあるから、もっともっと準備をしていればよかった。けれど、いきなり来たパスに反応してそのまま打ってしまったから、入るものも入らなかった。その日は調子が悪かったわけではなかったから、余計に後悔しています。
自分が打つ予定でなくても、気持ちも体も準備してパスを呼んでいれば、ディフェンスだって警戒するし、打つ予定の選手のスペースも空く。そういう駆け引きが今ならわかりますが、あの時は若かったのかな……。
最後のシュートを決められなくて、あの試合に出ていた選手たち、特にアテネを最後に引退することが決まっていた先輩たちにはものすごく申し訳ない思いがありますが、あのシュートを決められなかったから、この年までやっているというのもあります。それくらい自分にとっては忘れられない試合です。
――アテネ以後、矢野選手はオリンピック世界最終予選(OQT)に2008年と2012年の2回出場。勝負強さを求められてオリンピック予選のたびに代表復帰を果たしましたが、二度とも出場はかなわなかった。それだけに、オリンピックにかける思いが強いのでは?
北京もロンドンも、スカウティングと対戦相手へのアジャストの準備をもう少ししていれば、十分に出られたと思います。あと少しの準備が足りなかったことで、2回もオリンピックを逃してしまいました。日本はリオの前に2回もオリンピックに出られたはずで、もったいないなと思います。オリンピックがかなわぬままに引退してしまった選手もたくさんいます。自分はその辛い思いを引きずったまま引退したくなかったから、オリンピックにこだわって、ここまでやっていたのがありますね。
でも、ここ何年かはどういうふうに引退しようか考えたし、もう5人制の代表には呼ばれることはないとわかった中で、どこに自分の満足を置いて引退するのかというのを考えていました。オリンピックに出られなくてバスケット人生が終わるかもしれないと、何度も思いながらプレーしていました。
――5人制の代表候補に入れず、オリンピックには出られない。でもオリンピックへの思いが忘れられない。そんな中で、何を目標に選手生命を続けるのか、着地点がなかったということですか?
着地点がなかったといえばなかったですね。だから長くやっていたというのも、あるといえばあります。いちばんいいのは、トヨタでもう一度優勝して終わりたかったです。優勝したら「辞めます」と言えたかもしれない。でも、昨シーズンは久々にチームをファイナルに連れていけたという思いもありますね。そこでいいタイミングでスリーバイがオリンピックの種目になるというので、チャレンジしたい思いが強くて、転向に踏み切れたのはあります。
私は自分の年齢を言い訳にしないように一生懸命トレーニングをしているし、動ける体を作っています。スリーバイなら、今まで自分が培ってきた経験を生かせると思っていますから、それもまた新しいチャレンジですね。
※後編は3x3転向への決意、3x3ワールドカップ、今後の活動についてインタビュー。
矢野良子 Ryoko YANO
1978年12月20日生まれ、38歳、178センチ、徳島県出身。城北高を卒業後、ジャパンエナジー(現JX-ENEOS)入団。得点力のあるフォワードとして活躍し、2002年世界選手権、2004年アテネオリンピックに出場。ジャパンエナジーと富士通でWリーグとオールジャパン(全日本総合選手権)制覇に貢献。トヨタ自動車ではオールジャパン優勝を果たす。2017年、東京五輪から新競技に採用される3x3に転向。Wリーグからは去るが、今後もトヨタ自動車所属の選手として3x3で五輪出場を目指す。