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<朝ドラ「エール」と史実>「前線の慰問中に襲撃されて恩師死亡」の衝撃。どこまで事実がベースか

辻田真佐憲評論家・近現代史研究者
(提供:MeijiShowa/アフロ)

戦時下篇もクライマックスに入った朝ドラ「エール」。今日はとりわけ、衝撃の展開になりました。主人公の裕一が、ビルマの前線を慰問していたところ、敵軍に襲撃されて、恩師の藤堂先生が戦死してしまうのです。

先生が出征したことには、このような伏線があったわけですね。史実をモデルにしたドラマとは、このように物語を構成するのかと感心しました。もちろん、「前線の慰問中に襲撃されて恩師死亡」は事実ではありません。とはいえ、ベースになったと考えられるできごとはあります。ここでは、「襲撃」「慰問」「死亡」の3点で解説してみましょう。

■「この名山、廬山の麓で死ぬのも天命かと諦めたが……」

まずは「襲撃」から。じつは古関裕而は、前線の慰問中に襲撃を受けかけたことがあります。それは、1938年、華中に赴いたときでした。夜、星子という町で西条八十たちと休憩していると、完全武装の兵士がふたりやってきて、急報を告げたといいます。

「廬山に立てこもる約4万の敵兵が今夜来襲するという情報がただいま入りました。どうぞみなさんは、軍の行動の邪魔にならぬようこの建物の目立たぬ隅に退避してください」

折悪しく、大部分の部隊は今朝出発しており、現地には30人ほどの日本兵しかいませんでした。もし中国軍がそのまま襲ってきたら、ひとたまりもありません。そのときの緊張感を、西条はこう振り返っています。

ぼくらは落ちつかず、立ったりすわったり、かわるがわる二階の窓からおもてのようすをながめたりしていた。(中略)。一時がすぎたころ、遠くでかなり大きな爆音が聞こえた。つづいてはげしくなにかが炸裂するひびき。

「そら来た」というおそろしい予感がみんなの胸を衝いた。

出典:西条八十『わが歌と愛の記』

そして捕虜になって拷問されるのを恐れた西条は、いざというときには、コルト拳銃で自分を撃って欲しいと、同行した作曲家の飯田信夫に伝えたのでした。

古関もそのときのことを自伝に書き残しています。

この名山、廬山の麓で死ぬのも天命かと諦めたが、瞼のうらをかすめる映像、妻や娘の顔、父母の姿が浮かんでは消え、また次々に浮かび、やがては涙で霞んでくるのだった。

出典:古関裕而『鐘よ鳴り響け』

もっとも、中国軍はなぜか古関たちのいた場所を襲わず、結局また山へと帰っていきました。僥倖というほかありません。古関たちは、まさに九死に一生を得たのです。

■「主にフランス系のクラシックで私の趣味とも一致。大いに楽しんだ」

つぎに、「慰問」について。1944年のビルマ行は慰問というより従軍でしたが、古関はその帰路、仏印のサイゴン(現・ホーチミン)で印度支那駐屯軍より依頼され、慰問のための演奏会を企画・指揮しています。

古関は帰国を急いでいたのですが(その理由はこのあと述べます)、軍の依頼ではどうしようもありませんでした。古関は伴奏者を探すため、さっそく市内のキャバレーやレストランへ。さまざまなバンドを聞いてまわり、最終的に、「大世界」というキャバレーのバンドを使うことに決めました。メンバーの大部分がフィリピン人だったといいます。

そして1944年8月18日、カチナ街の映画館「エデン」で、在仏印日本文化会館の主催により、「映画及び音楽の夕べ」が開かれました。そのときのフランス語のプログラムが残っています。それによれば、音楽は「南国の朝」「暁に祈る」「蘇州夜曲」「若鷲の歌」「童謡3つ」「椰子の実」「荒城の月」「信集団行進曲」「愛国の花」「日本民謡」が演奏されたそうです。

古関にとって幸いだったのは、印度支那駐屯軍の河村参郎参謀長が、音楽好きだったということです。

一日おきくらいに、参謀長官邸に食事に招待された。フランス駐在武官としてパリの大使館に長くおられた河村参謀長は、音楽好きで、食事中もレコードをかけさせた。主にフランス系のクラシックで私の趣味とも一致。大いに楽しんだ。オペラの話など尽きるところを知らず、毎回遅くまでお邪魔してしまった。

出典:古関裕而『鐘よ鳴り響け』

このように、1944年の段階でも、慰問演奏会で楽しい思い出があったのです。なお、河村参謀長は敗戦後、戦犯容疑で逮捕され、シンガポールで処刑されてしまいました。

■恩師ではなく母が亡くなっていた

最後に、「死亡」についても触れなければなりません。

古関には、福島時代に3人の恩師がいました。小学校の遠藤喜美治、福商の坂内萬、丹治嘉市です。ドラマの藤堂先生は、この3人をモデルにしたものと考えられます。

結論からいえば、この3人はいずれもビルマで戦死していません。そこは完全にドラマの作り話です。しかし、古関が1944年のビルマ行で、大事な人の死に直面しなかったかといえば、そうではありません。じつは、母のヒサがこのとき亡くなっているのです。

1944年8月6日、史実ではインパール作戦の最前線に向かわなかった古関は、印度支那駐屯軍から呼び出されて、サイゴンに向かうことになりました。さきに述べた演奏会を行うためです。ところが中継地のシンガポールで、衝撃的な電報を受け取ります。ヒサが前日、危篤に陥ったというのです。

ヒサは中風を患い、ここ1年間、女中に介護され、寝たきりの状態でした。最近は会えていなかったので、帰国後は駆けつけよう。そんなことを考えていた矢先の知らせでした。

古関は、サイゴンで河村参謀長に事情を話して、帰国を許してもらおうとしました。ところが、軍の計画を変更することはできず、さきに述べたように演奏会を企画・指揮せざるをえなくなったというわけです。

結局、古関が空路で帰国できたのは、9月5日。母は亡くなっていたので、福島市で葬儀が執り行われました。

■少しタイミングがずれていれば帰国できていなかった?

ちなみに、このタイミングはかなりギリギリ。10月には、アメリカの機動部隊が沖縄と台湾に空襲を仕掛けてくるからです。その後、神風特攻隊が出撃するなど、日本の戦況はますます悪化の一途をたどりました。少し遅れていれば、古関はサイゴンから帰国できなかったかもしれません。

それはともかく、以上述べたように、「前線の慰問中に襲撃されて恩師死亡」は架空だったものの、「襲撃」「慰問」「死亡」に関する実話はあったのです。おそらくドラマのストーリーを構成するうえでも、参照されたのではないかと思われます。

評論家・近現代史研究者

1984年、大阪府生まれ。慶應義塾大学文学部卒業。政治と文化芸術の関係を主なテーマに、著述、調査、評論、レビュー、インタビューなどを幅広く手がけている。著書に『「戦前」の正体』(講談社現代新書)、『古関裕而の昭和史』(文春新書)、『大本営発表』『日本の軍歌』(幻冬舎新書)、『空気の検閲』(光文社新書)などがある。

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