<朝ドラ「エール」と史実>「あの兵隊には妻子がいる…」古関裕而は何を考えて「暁に祈る」を作曲したか
「今度は俺のことを思って書いてみてくれないか」。朝ドラ「エール」はまさかの展開。福島三羽烏の恩師・藤堂先生が出征することになったのです。これを受けて、ついに大ヒット軍歌「暁に祈る」は完成に向かいます。
では、実際の「暁に祈る」は、どのような背景で作られたのでしょうか。
■太平洋戦争まで売れ続けるロングセラー
前回触れたように、「暁に祈る」は、1940年、松竹映画『征戦愛馬譜 暁に祈る』の主題歌として作られました。
この映画は、その名のとおり、軍馬の宣伝を目的としており、陸軍省馬政課が関与していました。そのため、同課の出水謙一少佐によってあれこれダメ出しされ、野村俊夫は何度も歌詞を書き直すハメになったのです。「『ああ』とため息が出たので、それを冒頭に持ってきた」という野村の(冗談めかした)回想は、よく知られています。
こうして完成した「暁に祈る」のレコードは、伊藤久男によって吹き込みされ、3月25日に臨時発売されました。映画は泣かず飛ばずでしたが、主題歌は大ヒット。その後も、新譜を押しのけて売れ続け、レコードの製造数が激減した太平洋戦争の後半、1943年8月から1944年8月の間にも、4万1000枚が販売されたと記録されています。
「暁に祈る」がここまで広く歌われたのは、歌詞に軍馬がほとんど出てこなかったことも大きかったでしょう。歩兵にも、工兵にも、また海軍の軍人にも広く歌われたからこそ、大ヒットとなったわけです。とくに秀逸とされる2番の歌詞を引いておきます。
■「城壁に一人立つ歩哨の胸の内はどんなだろうか? と考えながら曲をつくった」
では、古関はどのような気持ちでこの「暁に祈る」を作曲したのでしょうか。古関も出演したテレビ番組の、こんな記録が残っています。
ここにあるように、古関は1938年の秋、作詞家の西条八十らとともに華中(中支)の前線を訪問しました。それは、プロパガンダの一環でした。日本政府は、さまざまな文化人たちに、実施中の漢口作戦を記録・発表させることで戦意高揚につなげようとしたのです。古関の属する「レコード部隊」は、上海に上陸後、南京に鉄路で渡り、そこから長江を遡行して、最前線の九江まで赴きました。
この従軍体験はさまざまなエピソードを生みました。「レコード部隊」一行が、中国軍の襲撃に遭いかけて、真剣に自害を考えたのもそのひとつ。そのときのことを、古関は「この名山、廬山の麓で死ぬのも天命かと諦めたが、瞼のうらをかすめる映像、妻や娘の顔、父母の姿が浮かんでは消え、また次々に浮かび、やがては涙で霞んでくるのだった」と自伝で振り返っています。
■「なんと古関氏は泣いておられるのだ」
また、「露営の歌」の作曲者として前線の軍人たちにサプライズで紹介されたときのエピソードも見逃せません。一部、現在では不適当な表現もありますが、そのまま引用します。
このように「暁に祈る」の背景には、古関の前線体験がありました(したがって、先生の出征云々はすべて架空です)。「露営の歌」も、満洲旅行が大きな影響を及ぼしていますから、古関の大ヒット軍歌には、いつも現地取材がともなっていたといえるでしょう。
古関の年齢も大きかったと思います。彼は、終戦時で36歳と、かなり若い作曲家でした。そのため、前線慰問などの機会も多かったのです。公式の発表によれば、「エール」でも今後、慰問の話が出てくるとか。主人公・裕一たちの音楽活動にどのように関係してくるのか、展開を楽しみに待ちたいと思います。