村下孝蔵の名曲にも登場した廃駅 地震被害を受け撤去へ のと鉄道能登線 恋路駅(石川県鳳珠郡能登町)
能登半島中部の穴水町を起点に能登町を経て珠洲市の蛸島駅まで能登半島南岸を走っていたのと鉄道能登線。惜しくも平成17(2005)年4月1日に廃止されてしまったが、廃止後も駅設備の撤去はあまり進まず、保存された駅が多かった。
そんな駅の一つが穴水から21駅目の恋路(こいじ)駅だ。ロマンチックな駅名で知られ、廃止後も観光資源として活用されていた駅だが、今年1月1日の能登半島地震で大きな被害を受け、立入禁止に。今月より撤去工事が始まった。
恋路駅は昭和39(1964)年9月21日、海水浴シーズンのみ営業する仮停車場として開業。昭和44(1969)年10月1日に臨時駅に変更され、営業キロが設定された。仮停車場と臨時駅の違いは営業キロ設定の有無で、営業キロ設定のない仮停車場の場合は、一駅先の正式な駅(恋路の場合は鵜島)までの運賃が徴収されていた。
「恋路」の駅名は駅近くの恋路海岸からつけられたものだ。恋路の地名は険しい崖を表す「こ・ひし」、あるいは峠を越えていく道に由来する「越路(こひじ)」が転訛したものと思われるが、地名の連想から生まれた悲恋伝説が残されている。
恋路海岸の悲恋伝説とは次のようなものだ。上写真以外にも説明版があり、そちらには源次のその後も書かれている。
恋路という地名は能登以外にもあり、愛知県田原市の恋路ヶ浜、長野県木曽郡南木曽町の恋路峠にもまた恋にまつわる伝説が残されている。
恋路駅は昭和50年代、北海道の幸福駅などとともに「縁起駅名」で注目を集め、多くの旅行者が訪れた。夏季のみ営業の臨時駅ながら隣の松波駅では「松波から恋路ゆき」の記念乗車券を通年販売し、ひと夏で10万枚売れたこともあったという。
昭和54(1979)年にはドラマ『恋路海岸』が放映され、主題歌としてなかにし礼が作曲・編曲した丹羽応樹『恋路海岸』という曲もつくられた。『初恋』で知られる村下孝蔵も平成元(1989)年に『恋路海岸』という曲を発表しており、こちらには恋路駅の情景も歌われている。
こうして注目された恋路駅だが、駅のある能登線の利用者は少なく、昭和63(1988)年3月25日に第三セクターの「のと鉄道」に転換された。恋路駅は三セク転換と同時に通年営業をするようになり、観光列車「のと恋路号」も走り始めた。
しかし、そんな時代も長くは続かなかった。利用者減少によりのと恋路号は平成14(2002)年10月21日に廃止、能登線自体も平成17(2005)年4月1日に廃止になってしまったのだ。
廃止後、しばらくはレールが撤去されたまま放置されていた恋路駅に転機が訪れたのは平成21(2009)年のこと。能登杜氏発祥の蔵元として知られる珠洲市の宗玄酒造が駅跡と隣接するトンネルなど一体の土地を買い取ったのだ。
宗玄酒造はトンネルを「隧道蔵」として日本酒の熟成に活用するだけでなく、駅跡に線路を再敷設し、乗車体験ができるトロッコ「のトロ」の運行も始めた。トンネル入り口にはトロッコの「宗玄」駅も新設されている。
ちなみに宗玄酒造の「宗玄」は明治の町村制まで存在した珠洲郡宗玄村に由来する。宗玄村は恋路駅跡からトンネルを越えたところにあり、明治の町村制で珠洲郡鵜島村となり、珠洲郡宝立村を経て現在は珠洲市だ。
廃止されてからも隧道蔵や「のトロ」によって活用されてきた恋路駅だが、今年1月1日の能登半島地震により、隧道蔵の出入口が土砂で埋もれる、ホームや線路が歪むなどの大きな被害を受け、危険ゆえに立入禁止となっていた。所有者である宗玄酒造も土砂崩れによる被害を受け、設備を使えない状況の中、手作業で酒造を再開している。
今月から始まった恋路駅の撤去は、駅跡を活用すべく工夫を重ねてきた宗玄酒造の方々にとって、断腸の思いで決断したことであっただろう。また一つ鉄道の面影が失われてしまったのは残念だが、本業の傍らで10年以上もの間、恋路駅を残してくれた宗玄酒造の方々の苦労には頭が下がる思いだ。
能登半島が一日でも早く復興して、また元のように生活が営まれ、気兼ねなく観光できる状況に戻ることを願ってやまない。
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