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1年ぶり復帰の目処が立った三浦皇成騎手。苦悩の日々と今後を語る!!

平松さとしライター、フォトグラファー、リポーター、解説者
8月中旬の復帰が決まり、現在の心境を語った三浦皇成騎手。

2016年8月14日。札幌競馬場で、突然、止まった三浦皇成の時計の針が、1年の時を経て、今、再び動き出そうとしている。落馬による大怪我からちょうど1年。これまでの彼の実績と怪我から現在までを自身の言葉も交えつつ振り返っていこう。

華々しいデビューから一転した日々

 1989年12月19日生まれの三浦皇成。5歳の時に大井競馬場でポニーに乗ったのを機に、騎手を目指すようになった。

 「幼少時は剣道、水泳、器械体操と、将来ジョッキーになった時に役立つと思えるスポーツに励みました」

 2008年3月にデビューを果たすと、瞬く間にスターへの階段を駆け上がった。デビュー3戦目での特別競走で初勝利。4月には新人騎手としては史上初となる1日全12レース騎乗。8月には早くも重賞初制覇。そして10月には70勝目を挙げそれまで武豊が持っていた新人年間最多勝記録を更新すると、その勝ち鞍を実に91まで延ばしてみせた。もちろんこれは未だに破られていないJRA記録である。

 翌09年2月7日には史上最速でのJRA通算100勝を達成。同年の夏にはイギリスへ遠征し、初騎乗初勝利を挙げると、すぐに2勝目もマーク。翌年は約2カ月に及ぶ長期のイギリス遠征も積極的に行なった。

 正に飛ぶ鳥を落とす勢いだった彼に、少しの陰りがみられたのが10年の頭のこと。多頭数の落馬を誘発し、騎乗停止となると、処分が明けてすぐ再度、騎乗停止。それまでの勢いがすごかっただけに、てのひらを返したようにバッシングされ、騎乗依頼もガクッと減った。当然、勝ち鞍も減り、デビュー当初「天才」と持てはやされたジョッキーはいつしか「普通の騎手」として扱われるようになり、露出度も減っていった。 

デビュー2年目には英国遠征し、海外競馬初騎乗初勝利を飾った。
デビュー2年目には英国遠征し、海外競馬初騎乗初勝利を飾った。

復活を模索し、再び花開いたかと思えたが……

 しかし、三浦皇成は決して努力を怠っていたわけではなかった。以前ほど注目されなくなってはいたが、毎日、自分なりに乗り方を考え、海外遠征も視野に入れる思考も捨てていなかった。デビュー3年目には46まで減った年間の勝利数も回復。減量のあったデビュー年ほどは勝てないものの、毎年70前後は勝てるようになっていた。

 それでも16年は再び苦しんだ。年頭からなかなか成績が伸びず、2月を終えた時点では4勝のみ。当時の心境を次のように語る。

 「騎乗フォームとかそういうことは常に考えています。でも、これだけ成績が凹んだことで、抜本的にもう1度、見直してみようと考えられるようになりました」

 これが正解だった。

 先輩騎手に助言を求めつつ、騎乗フォームを試行錯誤していくうち、徐々に勝ち鞍が増えた。6月には8勝した。7月にはレヴァンテライオンに騎乗して函館2歳S(G3)を優勝するなど、またしても8勝を挙げた。

デビュー3年目のイギリス遠征は今は亡き後藤浩輝元騎手と一緒に行なった。
デビュー3年目のイギリス遠征は今は亡き後藤浩輝元騎手と一緒に行なった。

悪夢の瞬間を語る

 そして迎えた8月14日。この日のメインレース・エルムS(G3)で騎乗する予定だったのはモンドクラッセ。ファンは調子を上げてきた三浦と同馬のコンビを1番人気に支持していた。

 「直前の大沼Sを無茶苦茶強い勝ち方をしていたので、当然、チャンスだと思い、期待していました」

 しかし、結果的に彼はこのレースに乗れなくなるのだ。そのレースの4レース前に行なわれた3歳以上・500万下の条件戦。ダート1700メートルのこのレースで彼がコンビを組んだのはモンドクラッセの弟・モンドクラフト。1番人気に応えるように勇躍直線コースを向いた時、悲劇が起きた。

 「ボキッという音が聞こえてバランスを崩すのが分かりました」

 落馬して馬場に転がる彼に後続馬が衝突した。

 「ぶつかった時の衝撃はすごかったです。そのあとは息苦しくなったのを覚えています」

 後に骨盤を骨折し、肋骨も9本が折れ、そのうち3本が肺に突き刺さる重症であることが判明する。

 しかし、彼がそれだけの重症であることを知ったのは救急車が手配されてからだった。病院へ移動するまでの少しの振動でさえ痛みが走った。相変わらず呼吸は困難だった。病院に運ばれるや、全身にチューブが刺された。下半身は感覚がなかった。そして、診断した医師からのひと言で、初めて自らの状態を客観的に見ることができた。

 「『命があって良かった。歩けるように手術していきましょう』って言われて、あぁ、これは凄い怪我をしてしまったんだなって分かりました」

札幌の病院で体中にチューブが通されて入院生活が始まった。
札幌の病院で体中にチューブが通されて入院生活が始まった。

折れそうになった心を支えた妻ほしのあきの言葉

 4日後の18日に最初の手術。1週間後に2度目、更にその2日後に3度目と、立て続けに施術された。途中、耐えられないほどの痛みに襲われることもあった。自分の状況に関係なく、毎週、普通に行なわれている競馬をみると、いたたまれなくなった。

 「自分なんかいなくても関係ない小さな存在だと感じて、まともに競馬をみることができませんでした」

 北海道から家の近くの茨城の病院に移るだけで1カ月を要した。その後も日がな一日病室で寝ているだけの入院生活が続いた。やがて車椅子ながらリハビリ室へ行けるようになったものの、はやる気持ちの三浦からすればまるでカタツムリの歩みのような自らの回復の遅さを恨めしく感じた。

 更に決定的なことが起きた。松葉杖を渡され、ゆっくりながらも前進したかと思えたものの、実際にそれを使おうとすると……。

 「足が震えてうまく立てませんでした。さすがにこの時は初めて弱音を吐きました。だって、立てないんですよ。騎手復帰どころか普通の生活さえ出来るようにならないんじゃないか?って不安になりました」

 そんな三浦を支えてくれたのが妻のほしのあきだった。

 「『皇成なら大丈夫。やるだけやってダメなら仕方ないじゃん』って言われ、まだ何もやらないうちから弱音を吐いていてはダメだと考えを改めました」

壮絶な入院生活に心が折れそうになることも……
壮絶な入院生活に心が折れそうになることも……

ファンのためにも復帰はこの日、この場所で

 さらにお見舞いに来てくれる知人や手紙を寄越してくれたファンからの言葉にも励まされた。

 1年間の休養中に5回の手術を行ない、両松葉杖をついても歩けないという状態から、リハビリを重ね、やがて片松葉杖、そして、松葉杖無しでも普通に歩けるまでに回復した。毎日、ジムへ通い、「落ちる前に戻すのではなく、以前よりも鍛えられた状態にした」。

復帰へ向け、休養前以上に厳しいトレーニングに励んだ
復帰へ向け、休養前以上に厳しいトレーニングに励んだ

 7月14日には美浦トレセン内の乗馬苑で、あの悪夢後、初めて馬にまたがった。さらに4日後には北馬場で調教に騎乗。誰も三浦のことを忘れてはいなかった。彼を見かけた人は口々に「戻ってきたか?」「大丈夫か?」と声をかけてきた。

 「やっといつもの生活が戻ってきたという気がしました」

 復帰に際し、彼がこだわることが1つあった。それは……。

 「復帰戦は、落ちた札幌競馬場にすること。これだけはこだわりました」

 大好きな競馬場が、このままでは最悪の思い出を抱えたままになってしまう。それだけは避けたかった。だから、復帰場所を札幌競馬場にすることだけにはこだわった。今年のエルムSは8月12、13日の週に行なわれる。あれからちょうど1年。皇成の、止まったままになっていた時計が、ようやく動き出す。

             (文中敬称略、撮影=平松さとし)

7月18日には美浦トレセンで調教騎乗を再開。復帰へのカウントダウンが始まった
7月18日には美浦トレセンで調教騎乗を再開。復帰へのカウントダウンが始まった
ライター、フォトグラファー、リポーター、解説者

競馬専門紙を経て現在はフリー。国内の競馬場やトレセンは勿論、海外の取材も精力的に行ない、98年に日本馬として初めて海外GⅠを制したシーキングザパールを始め、ほとんどの日本馬の海外GⅠ勝利に立ち会う。 武豊、C・ルメール、藤沢和雄ら多くの関係者とも懇意にしており、テレビでのリポートや解説の他、雑誌や新聞はNumber、共同通信、日本経済新聞、月刊優駿、スポーツニッポン、東京スポーツ、週刊競馬ブック等多くに寄稿。 テレビは「平松さとしの海外挑戦こぼれ話」他、著書も「栄光のジョッキー列伝」「凱旋門賞に挑んだ日本の名馬たち」「世界を制した日本の名馬たち」他多数。

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