北信越の「Fの悲劇」はなぜ回避されたのか 福井ユナイテッドFC、存続危機の舞台裏<前編>
かつて、サウルコス福井というJリーグを目指すクラブがあった。
正確に言えば、ワールドカップ・ドイツ大会が開催された2006年に設立され、ロシア大会が開催された18年まで、この名前で活動。翌19年1月から運営会社が変わり、福井ユナイテッドFCという新しい名前で再びJリーグ入りを目指すことになった。クラブカラーもグリーンからブルーに変更。選手の大半が残留したのに、名称とユニフォームの色が変わるという、実に摩訶不思議な現象が北信越リーグで起こったのである。
地域リーグを長年取材してきた私にとり、サウルコス福井は実に馴染み深い存在であった。それだけに、昨年6月に発覚したクラブの経営危機のニュースはショックだった。危機から1年以上が経過した今年7月、ようやく現地での取材が実現。そして8月8日と9日に、私の個人メディアである宇都宮徹壱ウェブマガジンにて掲載されると、読者から大きな反響があった。
その後、同ウェブマガジンにて「2019年、最も刺さった記事はどれ?」という読者アンケートを実施したところ、この福井ユナイテッドFCの記事が見事に第1位を獲得。今回、Yahoo!個人ニュースにて、転載することとなった。全体で1万字近くあるので、前後編に分けてお届けする。J1から数えて5部に当たる、北信越リーグでの知られざる物語。年末の慌ただしい時節柄、お時間がある時にお読みいただければ幸いである。
■サウルコスが消えた北信越リーグ
先制ゴールが決まったのは15分だった。木村健佑の左からの低いクロスに、背番号10を付けたFWの山田雄太がニアで合わせてネットを揺らす。
その2分後、木村の左コーナーキックから、山田が今度は頭で合わせて2点目。さらに26分にも木村→山田のホットラインで3点目が生まれる。わずか26分でのハットトリックを目撃したのは、いつ以来だろうか。
2019年7月28日、テクノポート福井スタジアムで開催された北信越フットボールリーグ第9節、カードは福井ユナイテッドFC対FC上田ジェンシャンである。順位表を見ると、8チームで構成された北信越リーグで抜きん出ているのが、福井とアルティスタ浅間で、前節まで共に勝ち点22。前日に浅間は最下位の加茂FCを3-0で勝利しているので、福井は絶対にこの試合を落とすわけにはいかない。
その後も福井は、無慈悲なまでにゴールを重ねてゆく。33分に御宿貴之、36分と38分に蔵田岬平、そして39分に山田が4点目。前半だけで7-0という圧倒的なスコアとなった。
ハーフタイム、ジリジリと照りつける夏の日差しを感じながら、撮影ポイントを福井のゴール裏に移動する。古株のサポーターが、応援チャントの説明をしているのが背後で聞こえた。
「まず女性が『レッツゴー福井! レッツゴー福井!』。そのあと男性が『ユナイテッド! ユナイテッド!』。じゃあ、やってみましょうか!」
実は去年の地域CL(全国地域サッカーチャンピオンズリーグ)まで、このチャントは「ユナイテッド!」ではなく「サウルコス!」であった。地域リーグファンにはお馴染みのサウルコス福井は、今年になって運営会社が変わり、福井ユナイテッドFCと改名。クラブカラーもまた、それまでのグリーンからブルーへと変更された。
なぜ福井からJリーグを目指すクラブは、まるでそれまでの歴史を打ち消すかのように、クラブ名もクラブカラーも一変させてしまったのか──。この疑問こそが、私が11年ぶりに北信越リーグを取材することになった、一番の理由であった。
たとえばホームタウンの広域化、あるいはクラブ同士の合併や商標権の問題から、クラブ名が変更されることはこれまでにもあった。クラブカラーが変更されるケースも然り。しかし、それらは頻繁に起こることではない。ましてや、クラブ名とクラブカラーが同時に変わるのは、かなりのレアケースと言ってよい。Jリーグ開幕以降では、99年のブランメル仙台(グリーン)からベガルタ仙台(ゴールド)の事例があるのみだ。
クラブ名にしてもクラブカラーにしても、そもそも当事者たちにとっては極めて大切なものだ。クラブ側の判断で勝手に変えられたら、間違いなくサポーターは黙ってはいない。ところが福井のゴール裏は、全員がお揃いの真新しいブルーのレプリカを着用。選手の名前が書かれた横断幕も、すべてグリーンからブルーに替えられていた。
生まれ変わった福井は、後半もゴールネットを揺らし続ける。終わってみれば11-0の大勝。山田は84分にも1点を挙げ、今季9試合で22得点とした。福井の松尾篤が17年に記録した、リーグ最多の25得点を抜くのは時間の問題だろう。チームも首位をキープ。浅間とは同勝ち点だが、得失点差で21点も引き離している。
2強によるデッドヒートは、おそらく最終節の直接対決まで続くはずだ。その行方も気になるところだが、それ以上に私が関心を寄せていたのが、サウルコスが影も形もなくなっていた理由である。限られた滞在期間で、果たしてどれだけその謎に迫ることができるだろうか。
■Jリーグ入りを目指す「恐竜の街」
日本海と若狭湾に面した、人口77万人の福井県は、いささか地味なイメージが拭えない県である。石川、岐阜、滋賀、京都の4府県と隣接していて、北陸なのか中部なのか関西なのか、その区分けが難しいのも一因だろう。サッカー界では「北信越」に属するが、ワールドカップ開催地となった新潟、あるいは2つのJクラブがある長野などと比べると、やはり地味である。
そんな福井が全国に、いや世界に誇るのが恐竜である。とりわけ勝山市では、5種類の新種の化石が発掘され、「世界三大恐竜博物館」のひとつ、福井県立恐竜博物館があることでも有名。そしてJR福井駅前では、実物大のフクイティタン、フクイサウルス、そしてフクイラプトルが、唸り声を挙げながらゆさゆさと蠢いている。元恐竜少年がワクワクするような中生代の光景が、そこには広がっていた。
福井のパブリックイメージといえば、越前蟹でも鯖江のメガネフレームでもなく、やはり恐竜。よって「福井からJリーグを目指す」クラブが、恐竜を想起させる「サウルコス」となるのも当然の流れであった。以下、06年11月25日の福井新聞から引用。
NPO「福井にJリーグチームをつくる会」は二十四日、サッカーJリーグ入りを目指すチーム名を「サウルコス福井」にすると発表した。(中略)/同会は十月、チーム名を「サウルス福井」「ザウルス福井」「サウルコス福井」の三つに絞り、はがきやホームページで投票を受け付けていた。/決定した「サウルコス福井」は、堂々と戦い抜く集団をイメージ。(中略)チームカラーの緑は、新鮮さや若々しさを表し、Jリーグの中で比較的使用しているチームが少ないことから選んだ。
サウルコス福井となって、最初のシーズンは07年の北信越2部からのスタートであった。福井は2位でフィニッシュし、新潟経営大学との入れ替え戦にも勝利。08年からは、いよいよ北信越1部に挑戦する。当時の報道を精査すると「4~5年でJ2」などという威勢の良い見出しも散見されるが、それがいかに甘い考えであったか、やがて思い知らされることになる。
この当時の北信越1部は、AC長野パルセイロ、ツエーゲン金沢、松本山雅FC、そしてJAPANサッカーカレッジがしのぎを削る、まさに「地獄の北信越」の時代。「石川からJを目指す」としていたフェルヴォローザ石川・白山FCは、経営難で弱体化して2部に降格している。当時を知るサポーターは、北信越の地獄ぶりをこう語る。
「2部から1部に上がって、レベルの違いに驚きました。最初のシーズンは、山雅と引き分けるのが精いっぱい。長野も金沢も『なんでこのカテゴリーにいるの?』って感じで(苦笑)。サポーターの数と応援でも圧倒されていましたね。ただし、これだけ厳しい環境で鍛えられたからこそ、ずっと1部でいられたというのもあるんですけど」
その後、松本と金沢が09年に、そして長野が10年に北信越リーグから卒業し、地獄の季節は終わった。そして福井は12年、初のリーグ優勝を果たして地域決勝(全国地域サッカーリーグ決勝大会。地域CLの前身)に挑戦する。しかし結果は、1PK勝ち2敗の最下位で1次ラウンド敗退。北信越は制したものの、全国との力の差は明らかであった。
翌13年、クラブは初のプロフェッショナルの監督として、佐野達を三顧の礼で迎える。実は福井県内で、S級ライセンスを持つ監督が指揮を執るのは、これが初めてであった。
■佐野監督時代の躍進と地域決勝の壁
佐野が福井を率いた13年から15年は、サポーターにとって明るい未来が感じられる3シーズンであった。前出のサポーターは語る。
「佐野さんが来てから、だんだんJリーグを目指すチームらしくなっていきましたよね。練習が夜から昼に変わって、2年目には胸スポンサーに福井銀行が付いて、テクノポートに4000人集まった試合もありました。北信越リーグでは4年連続で優勝したし、地域決勝も14年と15年は、決勝ラウンドに進出することができました」
佐野は、日産自動車が横浜マリノスに変わる直前までDFとしてプレー。指導者に転じてからは、いくつかのJクラブのコーチや監督を経て、10年からJFLのV・ファーレン長崎の監督に就任する。3年目の12年にはJFL優勝とJ2昇格を達成するも、クラブ側は佐野とは契約を更新せず、長崎出身で知名度もある高木琢也を後任監督に据えた。当人に忸怩たる思いがあったことは、想像に難くない。
もっとも、佐野が長崎で培ってきたノウハウが移植されたのは、福井にとっては幸いであった。GMを兼任することで、それまでの場当たり的な強化は改められ、人脈を生かした選手獲得も可能となったからだ。また、佐野自身が積極的に地元メディアに登場することで、クラブの知名度もアップ。平均入場者数も13年の714人から、14年には1516人と倍増している(ちなみに冒頭の上田戦は335人)。
かくして、北信越では圧倒的な実力と人気を誇る存在となったサウルコス福井。しかし全国の舞台では、どうしてもあと一歩届かない。13年の地域決勝では、2勝1敗の2位でまたも1次ラウンド敗退。14年と15年は、連続して決勝ラウンド進出を果たしたものの、いずれも昇格ならず。15年大会での指揮官のコメントを引用しよう。
「力不足だね、チャンスは作れていたんだけど。普通にできていたことが、できなくなるのが決勝ラウンドだと思うし、それが出せないのも力不足。ロングボールとかセットプレーで点を取れなかったら、やっぱり厳しいね」
結局、高知県春野総合運動公園陸上競技場で行われた15年の決勝ラウンドが、佐野にとってのラストゲームとなった。その日、スタンドで観戦していた『福井にJリーグチームをつくる会』理事長の梶本知暉は、「これで佐野さんも終わりかな」と周囲に漏らしたという。後任に選ばれたのは、佐野の前にチームを率いていた石田学。梶本の鶴の一声で決まった人事であった。
梶本は大阪の出身で、もともと福井の人間ではない。96年4月に福井トヨタ自動車社長に就任。06年6月に退任し、同社の顧問となると『福井にJリーグチームをつくる会』理事長に就任する。この時、すでに64歳。福井トヨタでは順調に業績を伸ばし、優れた経営者としての逸話はあちこちで聞く。
だが残念ながら、梶本はクラブ経営のプロではなく、サッカー界の人脈も皆無に等しかった(それでも奇跡のような偶然が重なって佐野を招聘できたわけだが、ここでは詳細は省く)。
一方で、長年暮らした福井への恩義に篤く、学生時代のプレー経験からサッカーへの情熱は人一倍あり、それゆえチームのためなら喜んで身銭を切った。新シーズンを迎えるにあたっては、監督の人件費を下げる代わりに、選手補強に多額の私財を投じている(しかも数千万円単位だったと言われる)。
地元愛とサッカー愛に溢れ、タニマチ気質たっぷりの経営者が、遮二無二Jリーグを目指したらどうなるか。勘のいい読者なら、すでに暗澹たる気分になっていることだろう。サウルコス福井の破綻へのカウントダウンは、実のところ、この時から始まっていたのである。
<後編>につづく。文中敬称略。写真はすべて著者撮影