音楽教室対JASRAC裁判の地裁判決は「一般人の常識に即した」ものか(前編)
前回の記事で書いたように、音楽教室対JASRAC裁判の第一審はJASRAC全面勝訴となりました。裁判所のサイトで公開される前に「音楽教育を守る会」(音楽教室側)のサイトに判決文と声明文が載りました。
今回の判決について、JASRAC側は「(法律的に正しいことは当然として)一般人の常識に即したもの」と述べています(参照記事)。当然ながら音楽教室側は、「市民感覚から離れた判決」と反発しています(参照記事)。
以下、判決文を簡単に解説していこうと思いますが、法律的な解釈は他の(私より詳しい)専門家の方も書かれていますので、本記事では、今回の判決がJASRACの言うように本当に「一般人の常識に即した」ものなのか、「市民感覚から離れてないか」を中心に考察していきたいと思います。なお、前提として、拙稿「JASRAC vs 音楽教室:法廷で争った場合の論点を考える」等を読んでいただけるとわかりやすいかと思います。
もう一つの前提として、音楽教室における演奏には、講師が指導のために曲の部分的フレーズを弾くことだけではなく、講師が10名程度の生徒を相手に1曲丸ごと弾くケース、参考のために市販のCDをかけて生徒が聴くケース、マイナスワン音源をかけてそれに合わせて生徒が弾くケース等も含まれている点に注意してください(これは原告(音楽教室側)の元々の請求に書いてある話です)。
今回の裁判では以下の7点が争点となりました。
争点1:個人講師による訴えの利益
争点2:音楽教室における演奏は「公衆」に対するものであるか
争点3:音楽教室における演奏は「聞かせることを目的」とするものであるか
争点4:2小節以内の演奏に演奏権は及ぶか
争点5:演奏権の消尽(「楽譜代を払ってるから二重取りでは」問題)
争点6:CD再生による権利侵害(「生徒はそのCDを持ってるから違法ではない」問題)
争点7:権利濫用
以下、それぞれについて検討します。
争点1:個人講師による訴えの利益
今回の訴訟の原告に含まれていた個人講師の方の原告適格性に関する議論で、裁判所はJASRACの主張を採用せず原告適格ありとしました。この争点は、本筋にあまり関係ないので議論は割愛します。
争点2:「音楽教室における演奏が"公衆"に対するものであるか」
著作権法の演奏権は公衆に対する演奏にしか及びませんので、教室内での演奏が公衆に対するものであるかは重要な争点です。結論としては、教室内での演奏の主体は音楽教室運営会社(ヤマハ音楽振興会等)であり、その生徒は不特定多数であるので、教室内での演奏は「公衆」に対するものであるという結論になりました。いわゆる「カラオケ法理」と「一人でも公衆」という判例上ほぼ確定した考え方がそのまま適用されました。
「カラオケ法理」とは、カラオケスナックで素人が唄を歌うケースで、カラオケ機器は店の管理下にあり、店は客のカラオケ歌唱で利益を得ているのだから、店が歌唱しているとみなすことができ、店に著作権利用料の支払い義務が生じるという判例から生まれた、司法の場ではかなり確立した考え方です。今回も、原告(ヤマハ等)の施設を使って、原告が決めたカリキュラムにしたがって、原告と契約した講師が演奏して、原告が利益を得ているので実質的には原告が演奏していることになると、裁判所は判断しました(他にも興味深い法律的論点がありましたが割愛します)。
また、少なくとも教室内の1対1のレッスンでの演奏が「公衆」に対するものであるというのは直感に反するかもしれません。しかし、逆に考えると、一時点で一人しか聞いていないから「公衆」に対する演奏ではない(よって、著作権法上の演奏権は及ばない)という理屈が通るとおかしなことになってしまいます。拙稿「著作権法における"一人でも公衆"理論を説明する」でも引用した文化庁のサイトの説明を見るとわかりやすいです。
また、「カラオケ法理」により、演奏の主体は音楽教室運営会社であるとするのはおかしいということで、著作権使用料を請求するなら実際に演奏している講師(その多くは個人事業主)に請求せよ(音楽教室は場所を貸しているだけであるので関係ない)と言うのも(法律論以前の話として)物の道理に反すると思います(ライブハウスは場所を貸しているだけだから著作権使用料は各ミュージシャンに請求しろというロジックと同じです)。
ということで、争点2については、「一般人の常識に即した」と言い切れるかは別として、少なくとも逆に判断するよりは道理にかなっているとは言えるのではと個人的には思います。
長くなったので続きは別記事にします(たぶん、全3回になるでしょう)。