【国富町】放浪の歌人・種田山頭火:本庄の石板に刻まれた旅の記憶
種田山頭火(たねだ さんとうか)という吟遊歌人をご存じですか?彼が国富の本庄を訪れたこと、そして義門寺の石板のことを知っていますか?今回は本庄を訪れた足跡を追いながら、俳句と旅に彩られた彼の思いに触れてみましょう。
・酒、旅、そして歌 山頭火の放浪人生
種田山頭火は大正から昭和初期に活躍した歌人です。1940年に亡くなるまで、旅を続けながら多くの句を詠みました。
1枚の石板との出会い
彼が本庄に一泊していたことを知ったのは、以前の記事の豊臣秀長の禁制書を取材するため、義門寺を訪れたときのことです。寺の駐車場には秀長禁制書の石板が設置されており、その隣に山頭火の石板が並んでいました。この石板が、彼の足跡をたどるきっかけとなりました。
石板には「昭和5年10月18日本庄仲町に宿す」と彫られています。彼の放浪の日々を記した日記「行乞記」を読むと、確かに本庄に泊まったときのことが書かれていました。
自由な俳句スタイルの山頭火
山頭火は、五七五の型に縛られない「自由律俳句」を確立した歌人の一人です。自由でシンプル、そして分かりやすいのが特徴です。
例えばこの句
「酔うて こほろぎと 寝ていたよ 」
全然俳句らしくない、自由な句です。そして分かりやすい。しかしその背景には孤独で自堕落な生き方がありました。俗世から離れるためか、熊本市のお寺で修業を積み、1925年に僧侶となりましたが、酒におぼれた日々からは抜けだせなかったようです。旅先の家々の前で経を唱えて、食事や金銭をもらい、その金で酒を飲む生活を続けていた山頭火。旅先で数々の句を詠みましたが、彼の作品からは孤独と弱さが感じられます。しかしそこに人間臭さを感じます。
では、本庄を訪れた際の、彼の足跡をたどってみましょう。
1930年の旅路を追って
山頭火は1930年9月9日に八代から旅を始めますが、10月18日に本庄まで来ています。その数日前からの足取りはこのようになっています。
10月15日
都城→有水(都城市高城町) 山村屋に宿泊
10月16日~17日
有水→高岡(宮崎市) 梅屋に宿泊
10月18日
高岡→綾→本庄(国富町) さぬきやに宿泊
10月19日
本庄→妻町(西都市) 藤屋に宿泊
「さぬきや」は本庄仲町にあった宿で、義門寺から旧道を東に少しばかり歩いた場所にあったと言われています。
・義門寺の石板に刻まれた山頭火
義門寺の石板には彼の代表句が彫られています。
「山へ山へ摩訶般若波羅蜜多心経」
注:正確には「山へ空へ摩訶般若波羅蜜多心経」
般若心経を唱える自身の姿を詠っています。弱く繊細な故、酒に逃げ、破滅的な人生を送った山頭火。どういう気持ちで唱えていたのでしょう。
この石板を造ったのは現義門寺住職の小野弘雄さん。今から40年くらい前に造ったと言います。秀長の禁制の石板を造る際に、山頭火が本庄に訪れたことを知り、上記の句が仏教に関連することから、彼の石板も作ったということです。
寺には山頭火が実際に句を書いた短冊がいくつかありましたが、紛失してしまったとのこと……
・作品から感じる自然の美しさ、そして孤独
彼の句からは時にはユーモラス、時には切なく、私たちの心に触れてきます。
どうしやうもないわたしが歩いてゐる
酔へばいろいろの声が聞こえる冬雨
お月さまが地蔵さまにお寒くなりました
山頭火の遺した言葉
彼の日記のこの文章は印象に残ります。
「無駄に無駄を重ねたような人生だった」
誰しもがそう思った経験あるのではないでしょうか。しかし、人生に無駄な経験はないと信じたいものです。石板の前で彼の句を実際見てみてください。風を感じ、空を見ながら読むと、色々考えさせられます。そして自分自身の事も振り返るかもしれません。
取材協力:小野弘雄様 (義門寺住職)
注:作品を引用していますが、山頭火は1940年に亡くなっているため、著作権は消滅しています
義門寺
住所:〒880-1101 宮崎県東諸県郡国富町本庄4832
電話:0985-75-2390